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猫君 意味ありげに書いて意味がないのはよくない。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月29日(月)23時33分47秒
 
絶対的にも
弱くある自由へ
相対的にも
弱くある自由へ


 このレトリックに何の意味があるの?くるぶしさんの「がんばらない文明の話」でも
読んだ方がよい。

 分配は…他者との問題ではない…内部の問題だろう。何を内部とするのかという線引き
の問題でもある。
 

要は 自由の平等へ  弱くある自由へ

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年 6月29日(月)23時16分22秒
  >その「規制」をはずそうとする陰謀が国家権力によって企てられている。

それって、結局はそういうこと。

>微力だけど、やらなくちゃ

これも、そう。

だけど核心をえぐらず、お花畑的に済まそうとする。
 

がっかり

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年 6月29日(月)22時56分42秒
  まっぺんさん

絶対的にも

弱くある自由へ

相対的にも

弱くある自由へ

>>
「弱くある」とか「強くある」とかも、「他者との比較」で言っても意味ないと思うんですけどね。
>>

分配とは他者の問題、他者「との」問題なんですけど。

花満開
ご苦労さまです。騙しで逝ければそれに越したことはないですね。


自由の平等へ

平等へ、他者の問題ですけど。他者「との」問題ですけど。


>>
人間は社会的動物。社会的関係の中で「自由」が語られ、「自分の自由」を主張し、「他人の自由」を意識する。
>>

と出発し

>「他者との比較」で言っても意味ない

とゴールする、猿トーク
白痴仕様のお喋りは楽しいですか。

おそらく「比較」がどうたら言い訳がある悪寒



そもそも
我々の絶対的(だと錯覚する)欲望自体が
他者の欲望。

閉じた(という勘違いの)自意識そのものが他者の自覚、他者との錯綜、他者の視線奪取なんですよね。

社会という意識は、第一義的には他者との差異性と同一性のパラドクスを比較級において自覚するということでんがな。

自由なんて、他者との比較級においてしか存在しえないし。



自由の平等へ
”原級”比較としての自由へ
 

実質は憲法をきちんと知ること

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月29日(月)22時34分28秒
  ぐらいしか、わしの現場ではできかねる。

 そこを一歩踏み越えちゃうと「偏向」と言われかねない。

しかし、わしの子どもの頃は憲法の重要条文は丸ごと覚えるものであった。
前書も暗記した。

 (だから、例の他の国も○○を信じ…なる文句も覚えてるし、それゆえに、
  わしらの年代はそれにつっこみを入れたがる人も多いのだと思う。相手の
 善意を前提にする外交なんてありませんからね。)

武力がないから外交問題が解決しないのだという安直な展開さえ庶民レベルで叩ければ
大丈夫。
 

微力だけど、やらなくちゃ>まっぺんさん

 投稿者:愉快な罵倒推進委員会  投稿日:2009年 6月29日(月)19時44分2秒
  >いま、その「規制」をはずそうとする陰謀が国家権力によって企てられている。

まったく、その通りですね。皆さん、おとなしいんですね(謎笑)
 

自由と"健康"

 投稿者:A.伊助 (tooFat)  投稿日:2009年 6月29日(月)10時16分25秒
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%BA%B7
>(健康とは)身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに
>病気あるいは虚弱でないことではない。1948.
   (1999年提案はあえて忌避-苦笑)


 "自由"と"健康"は どこか似ている…
 

なんか「ゲー出る・えっしゃー・バッハ」の世界に…

 投稿者:まっぺん  投稿日:2009年 6月29日(月)09時53分3秒
  また戻っていきそう(o^^o)

「ゲームのルールを決めるゲームが存在する」←これ、「クレタ人のパラドックス」の本質ですな。(=^^=)

※そういえば、「日本国憲法」。
国が国民を規制するためのものではなく国家の暴走を食い止めるための規制と規定されます。
いま、その「規制」をはずそうとする陰謀が国家権力によって企てられている。
 

社会規範を決める

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月29日(月)05時44分19秒
   社会規範は決めることでしょうか?どうも、ヴィトゲンシュタインやカントなどと
つきあっているとそうではないような気がします。

 できあがってしまうものではないでしょうか?そして、それが規範なのだというのは
 「ほら、みんなもそれをしている」という指摘によって理解するしかないのではない
 でしょうか?

カントはその底に「人間性」を見出し、「人間なら当たり前」があると考えました。
ヴィトゲンシュタインは、一つの傾向を見出しながら(それがゲームであること。
ゲームのルールを決めるゲームが存在すること)恣意的なものであると考えました。

仰山党党首にこだわりはと聞かれて「規則」と答えたのはそのことこそ一番ひっかか
っているからです。

 国家が法を作れる(作ってよいとされる)のも、その法の前に何らかの法が成立
しているからではないでしょうか?
 

「快いのかどうか」ですか…

 投稿者:まっぺん  投稿日:2009年 6月28日(日)23時30分7秒
  ヨガの行者は苦行してるし、ムスリムの中には背中を鎖で傷だらけにする宗派もあるし、戒律によって酒、たばこ、コーヒーまで飲めない宗教もあります。なんでなんだろ? まぁあれも「それが快楽なんだ」と言ってしまえば、それまですが。

そういえば、昔は暇を見つけては山登りなんぞしてましたが、あれも「苦行」ですねー。そのかわりその苦行の果てに頂上を極めた時のなんとも言えない快感は他に得がたいものがあります。

さて、自由について、ですが、確かに「自由」は社会の中にあって一定の規範の範囲内でしか保障されません。しかしまた、その社会規範をどのように決めていくのか。上から目線で人を支配しようとしている限りその社会の自由度はかなり制限されてしまう。「生きる自由=死ぬ自由」を究極の自由と規定したのは、「なぜ生きるのか」、それを考えるためには最低限「生きている」という「時間」が絶対的に自分自身のものとして必要だからです。だから(命を)奪われてはならないし、(自殺を)禁止されてはならない。
 

立ち位置

 投稿者:見物人A  投稿日:2009年 6月28日(日)22時47分38秒
  別の「見物人」さんもいらっしゃるようなので自分をAとしました。

>招き猫さんには、その高いスペックでもって率先垂範する気はないのでしょうか?

激しく同感です。
どの様な批判も自由でありましょうが、現実の実践者を「敵」と規定し批判するなら
自らの政治的立位置と活動実践が問われるのは当たり前と考えます。
 

天敵がいないから寝ているは

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月28日(日)22時39分0秒
  間違い。

 なぜなら、ナマケモノは鷹の餌である。
 だけれども、寝ている。

コアラには主たる天敵がいない。しかし、だから寝ているわけではない。
天敵がいない=寝ているはあまりにも飛躍している。
天敵がいなかったドードは寝てばかりいたろうか?
 

本当に自由だと

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月28日(日)22時02分19秒
  社会がつくれないんですよ。

 (まっぺんさんはたぶんそういう話を最初にもってきてるんだと思う。)

死ぬ自由も結局は「生き方を決める自由」に還元されちゃうんじゃないでしょうか?

じゃあ「生き方を決める基準」が問題になりますよね。われわれはその答えを昔から
知っていたはずです。

「快いのかどうか」です。安楽死の問題は結局、死も生きることだとすれば、苦しく
なく生きることを選択することは悪いことなのか?でも、それを決めるのは誰なのか?
ということですよね。

 (最近、脳死は死であるということになったので、生体反応があるだけの存在は死体
ということになり、その決定権はその時点で廃止されることになってしまいましたが。)
 

自由について

 投稿者:まっぺん  投稿日:2009年 6月28日(日)21時55分27秒
  人間は社会的動物。社会的関係の中で「自由」が語られ、「自分の自由」を主張し、「他人の自由」を意識する。
「生きる自由」は誰に対しても無条件に保障された究極の、最後に残された「自由」である。
またそれは「死ぬ自由」があるからこそ保障される。
生きる自由は「他人に殺されない」ことと「自分で死ぬ自由」によって保障される。
したがって、ここから「死刑」は否定されるべきであり、「自殺」の自由は保障されるべきである。

どう? ↑こういうの?
「弱くある」とか「強くある」とかも、「他者との比較」で言っても意味ないと思うんですけどね。
 

ええい

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月28日(日)21時48分0秒
  わしも猫君も当てにはならない。
ご本人に話してもらうのが一番よい。
http://www.jinken.ne.jp/challenged/tateiwa/index.html
 

奥付をみたら

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月28日(日)21時46分4秒
  あの事件は04年 この本は00年出版なので無関係でした。

あの事件を相当怒っていたのはわしだったってことだ。
 

弱くたって自由に

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月28日(日)21時43分26秒
  何でもできる方がよいというのが立岩の主張である。

 (身も蓋もない話だけど、単純化するとそうなる。)

自己責任 自己決定というものは、それが可能な人だけができることだ。
じゃあ、なぜ可能なのかという話である。

 弱くっても大丈夫!ってスローガンの方がもっとすっきりしてよい。
だけど、例のイラク人質事件があったので立岩さんも怒っていたのだろう。
 

スペック

 投稿者:純情まっすぐ君  投稿日:2009年 6月28日(日)21時39分49秒
  趣味だ、と言っている人を捕まえて、何故プロを目指さないのか?と言っても、余計なお世話
ではないでしょうかね?

自分のスペックが高いと思うのでしたら、まず自分がプロになって周りを教化してみる
という行動に出ればいいんじゃないでしょうか?

招き猫さんには、その高いスペックでもって率先垂範する気はないのでしょうか?
 

立岩の論理をズラシまくるから

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月28日(日)21時37分21秒
  そうなるのだと思う。  

猫君、お気に入りのことばらしいけど。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2009年 6月28日(日)21時32分5秒
  弱くある自由…なんてない。それこそ、遠近法的倒錯だろ。

 結果として、配置が決まるのであって、配置が結果を決めるわけじゃない。

何かをしてみるまで、その能力がどれくらいあるのかわからない。

 自由があるから、強い弱いがあるのだ。

弱くある自由というのは、ありていにいって「ありのままの自分を
受け入れて」派「世界でひとつだけの花派」だよ。

はっきり言おう。糞だと。

 なそうとするときだけにしか自由はない。(カントのいう通りだ。)
 しない自由はないのだ。
 殺さないは殺すのと一緒だ。誰かが変わりにそれをする可能性をまったく
 否定していない。
 殺さないのではなく、助けようとすることが必要なのだ。

(あーすんげえ、明確ですな。これで○○しない自由なんぞは素朴な誤謬で
あることがよくわかったと思う。)
 

二次会がカスである理由

 投稿者:招き猫  投稿日:2009年 6月28日(日)20時54分13秒
  あるいは左翼が絶望的である理由

弱くある自由へ

これだけが自由への道だ。

すなわち、自由の分配
平等なる自由への道



なぜ、弱くある自由を語らん
まっぺんさんよお。
 

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