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シコク嫁讃へ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月20日(月)12時05分14秒
編集済
  >初心者さま、上の御文章、シコク嫁、なんか泣けてきました。もっっっっっのすごく感動してます。
感動という言葉だけでは表現できない何かが渦巻いております。すごいや・・・。

 シコク嫁さま、ありがとうございます。おいらも、いま、あらためて読み直してみて、なぜか感動してしまいましたです。ホンマにおいらが書いたのでしょうか。書いたはずの本人がいうのもなんか変ですが、「日時計主義」は、ほかのどんな生き方にもひけをとならない、ものすごい生き方なのだと、妙に納得できるものがあるような気がいたします。
 

なんだか泣きそう

 投稿者:シコク嫁  投稿日:2009年 7月20日(月)10時56分0秒
  >>「日時計主義」は、子供のお遊びではない。それは、魂にとって、命がけの「判断」でなければならないのだ。この意味で「日時計主義」とは「行」である。それは、自分の目の前でおこる現象にたいして能動的に関わるための、魂的な訓練なのだ。
「日時計主義」は、目前でおこったことをそのまま見るのではなく、自分が見たいように見るための行法なのである。そこに、誰も見ることのできないものを見ようと決意することなのである。こうした決意の連続によって、人は、魂の力で世界を観ることができるようになるのである。。。。。

初心者さま、上の御文章、シコク嫁、なんか泣けてきました。もっっっっっのすごく感動してます。
感動という言葉だけでは表現できない何かが渦巻いております。すごいや・・・。感謝合掌再拝。
 

「日時計主義」とは何か

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月19日(日)12時08分43秒
編集済
   「人間は考える葦である」といったとき、これは、おいらにとってはたんなる「表象」でしかない。人間が考える葦であろうがなかろうが、どっちでもいい。これでおいらの将来がどうこうなるわけではないんだし、今日を生きる糧が得られるわけでもない。

 誰かが、おいらに向かって「人間は考える葦である」といったとしても、「あー、そうだね」てなもんだ。どっちだっていいことなんだから、あえて反対する必要もないし、特別に感心するほどのものでもない。

 これが「人間は神の子だ」となると、話は違ってくる。どっちだっていいというわけにはいかないし、将来にだって、おおいに関わってくることだ。それに、今日を生きるための糧が得られるかもしれないというのもある。

 「あー、そうだね」と生返事をするわけにもいかないし、場合によっては、否定するか受け入れるかを「判断」する必要にせまられることだってあるかもしれない。

 ドイツロマン派の代表的な詩人であったフランツ・ブレンターノは、人間の魂のはたらきを「表象」、「判断」、「愛憎」の三つにわけて考えた。これは画期的な考え方であったようだ。当時のドイツ観念論では、魂のはたらきは「思考」、「感情」、「意志」の三つにわけて考えられていたのだから。

 ブレンターノは、「表象」は、物と物との関係から生じると考えた。目の前に花があるとき、その花を見て「あー、きれいだなー」とおもえば、意識のなかに「きれいな花」の「表象」が生じたことになる。このように考えることには、ほとんど問題はない。

 しかしもし、「ここに花が存在する」と考えたとすれば、これを「表象」というにはいくらか問題がある。これは、あきらかに、たんなる「表象」とはいえない別の何かをふくんでしまった言い方であるからだ。そして、その別の何かを、ブレンターノは「判断」と呼んだ。

 しかし、ブレンターノは、こうした「判断」がどのようにして生じるかを説明することができなかった。われらの信仰に即していえば、「人間は神の子だ」という考えが、人のなかにどのようにして生ずるのかが、かんたんには説明できないということなのだ。

 「表象」とは、たんに、脳という鏡に映った「像」でしかない。脳という鏡に映った「きれいな花」の「像」を見て、「あー、きれいだなー」と感じた魂の「像」が、ふたたび脳に映っただけの話である。これにたいして、「ここに花が存在する」というのは、脳に映った「像」ということはできない。

 「ここに花が存在する」という「像」が脳に映るなんてことはありえない。これはあきらかに、脳に映った「花の像」を見て、誰かが何らかの方法で「ここに花が存在する」と「判断」したということなるのだ。こうした「判断」を、誰がどうやっておこなっているのか、それがブレンターノには、最後まで理解できないことであったのだ。

 ルドルフ・シュタイナーは、ブレンターノのあとを継いで、「表象」と「判断」について考えた。そして、「判断」が、人間が本来的にもっている十二の感覚をフルに動員してなされていることに気がついたのである。

 十二の感覚とは、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五感にあわせて、熱感覚、均衡感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、概念感覚、個体感覚の七つをくわえたものである。シュタイナーによれば、人は、こうした感覚のすべてを動員して、「表象」によって得た印象を「判断」しているということになるのである。

 シュタイナーは、「表象」は受動的なものだという。自分から、それにたいして積極的にかかわらなくとも、自動的に外から入ってくるものなのだという。これにたいして「判断」は、能動的であり積極的なものだということを、シュタイナーはいっているのである。

 「あー、きれいだなー」というのは、ひとりでに外から入ってきて、脳という鏡に映った受動的な印象でしかない。「ここに花が存在する」は、そうではない。十二の感覚をフルに活用して、人が、能動的に下した、魂の「判断」なのである。

 シュタイナーは、教育的な観点からテレビを否定した。テレビにたいして、人は、視覚と聴覚の二つの感覚をつかうのみである。こうした状況では、人は、テレビの画面から「表象」を受け取るのみで、それにたいしてなんらかの「判断」を下すことはできなくなってしまうのである。

 こうした生活を続けていると、外から得た印象を漫然と受け取るだけで、なにひとつ「判断」できない人間になってしまうと、シュタイナーは考えた。だからテレビを否定した。

 さて、ここからいよいよ「日時計主義」の問題に入ることになる。「日時計主義」はものごとのよい面だけを見ようとするのであるが、その「よい面」とは、それが、はたして「表象」なのか「判断」なのかということが大問題なのである。

 もしそれが「表象」にとどまるなら、その人は、まるでテレビを見ているように、漫然とその「よい面」を見ているだけということになる。つまり、外から入ってきた印象に、受動的にとらわれているだけということになってしまうのである。

 「日時計主義」が「判断」となるとき、人は、十二の感覚をフルに活用して、能動的かつ積極的に、ものごとの「よい面」に関わろうとする。これができるようになって、人ははじめて、真実の意味での「日時計主義」に参入したということがいえるようになるのである。

 目の前に一匹のゴキブリがいるとする。「いやだ」、「きもい」、「どっか行け」というのは、たんなる「表象」である。あたえられた印象をそのまま受け入れただけのことである。

もしこのとき、ゴキブリから得た「表象」にたいして、誰かが、「こんなことではだめだ。もっと積極的にかかわろう」と決意したとする。するとどんなことがおこるのか。その誰かは、ゴキブリにたいして、十二の感覚をフル活用して、なんらかの「判断」を下そうとするだろう。そこになんらかの「美」を見出そうともするだろう。こうした決意と行動の不断の連続こそが「日時計主義」の面目躍如たるゆえんなのである。

 「日時計主義」は、子供のお遊びではない。それは、魂にとって、命がけの「判断」でなければならないのだ。この意味で「日時計主義」とは「行」である。それは、自分の目の前でおこる現象にたいして能動的に関わるための、魂的な訓練なのだ。

「日時計主義」は、目前でおこったことをそのまま見るのではなく、自分が見たいように見るための行法なのである。そこに、誰も見ることのできないものを見ようと決意することなのである。こうした決意の連続によって、人は、魂の力で世界を観ることができるようになるのである。
 

都市のランドマーク

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月17日(金)20時47分18秒
編集済
   奈良、東大寺の大仏建造にもし水銀がつかわれていなければ、日本の歴史はかなり違ったものになっていたかもしれない。大仏の建造には大量の水銀がつかわれている。水銀に金を溶かし込んだアマルガム合金を、大仏本体に塗りつけたあとで、水銀だけを蒸散させるという方法で、金色に輝く大仏はつくられたのだ。

 蒸発した水銀は、長期にわたって奈良盆地に滞留し、さまざまな健康被害をもたらした可能性は否定できない。一説では、こうした被害により、宮廷は、平城京から平安京への遷都を余儀なくされたともいわれている。もしも水銀による被害がなければ、遷都はかなり遅れていたかもしれない。もしそうであれば、日本の歴史は、この時点で大きく異なったものになったはずである。

 奈良時代の代表的な建築物といえば、東大寺の大仏殿ということになるだろう。いっぽう、平安時代のそれはといえば、宇治平等院の鳳凰堂があげられるだろう。水銀によって結びつけられたかもしれないふたつの建築物は、それぞれの時代について、いったい何を語ろうとしているのだろうか。

 奈良時代といえば、大陸から仏教が伝来して二百年近くが過ぎたころで、民心は、御仏の救いにたいする期待に満ち溢れていたことであろう。その期待の象徴が、奈良の大仏の正式名称である「毘盧遮那仏」であったといって過言ではない。

 この時代の人々の現世にたいするイメージは、強固な立体物のようにしっかりとした足場をもったものであったはずだ。世の中には、自分たちを支えてくれるたしかな後ろ盾が存在するということを、人々は微塵もうたがうことなく暮らしていたに相違ないのである。

 東大寺大仏殿の、壮大で奥行きのある立体構造は、当時の人たちの、現世にたいする、楽観的で信頼に満ちたイメージを反映したものであるといってよいだろう。こうした建築様式が受け入れられたということは、この時代の空気が、人々にとって、どっしりとした強固な構造体として感じられていたことを示しているのである。

これにたいして、平等院鳳凰堂の幽玄ともいえる、はかないまでの平面構造は、なんと表現すればよいのだろう。平安時代も後期になると、打ち続く戦乱や飢饉によって、京の都は疲弊しきっていた。民心が、不安と恐怖のなかで揺れ動いていたであろうことは想像に難くない。

この時代の人々にとって、現世とは、無常を感じさせる、はかなく弱々しいものであったろう。こうした無常のイメージが投影されて、鳳凰堂は、あのような幽玄さをたたえた平面的な構造物として表現されることになったのである。平安京の世情は、奈良の大仏殿の壮大な立体構造を受け入れられるようなものではなかったということを、鳳凰堂の幽玄なたたずまいは、われわれに語ろうとしている。

建築物には、大なり小なり、その時代の気分や雰囲気があらわれているはずだ。この意味で、現代の都市に林立するスカイスクレーパーをどのように理解すればよいのだろう。技術がもたらした土地の有効利用という可能性がいちばん高いにきまっている。しかし、人々がスカイスクレーパーを見上げるときの、あの讃嘆に満ちたまなざしは、それだけでは説明のつかない何かがあることを示しているようにおもわれてならないのである。

地震大国であるこの国にそびえ立つ、あの細長い不安定な構造物をながめる人々の胸に去来する思いとは何なのだろう。現代の建築技術にたいする信頼なのか。いったんは焦土となった国土に芽生えてきた、未来にたいする希望なのか。それとも、経済大国となったことへの自信と誇りの再確認なのか。

おそらく、そのどれもが正しくはないだろう。スカイスクレーパーとは、空間を定義したいという、人類の欲望が投影されたものなのだ。高度な建築技術を手に入れた人類は、いよいよ空間に意味を見出そうとしはじめたのである。そこに何もなければ、何ひとつ意味を見出すことのできない空間に、一本の棒を立てることで意味を見出そうとしているのだ。

棒は長ければ長いほどよい。多ければ多いほどよい。多くの棒が突っ立った風景をながめるとき、人ははじめて、空間という虚無から解き放たれた安堵感にひたることができるのだ。

現代人にとって意味は不可欠だ。生きる意味とは。働くことの意味とは。家庭を持つ意味とは。そんなことを、たえず問いかけないではいられない。そんな現代人にとって、空間は究極の無意味である。その無意味に意味を与えようとするのがスカイスクレーパーなのだ。

現代人にとって、それはメサイアそのものである。都市のランドマークとは、地面につけた印のことではない。それは、まごうかたなき空間へのマーキングなのだ。現代の都市は意味に満ち溢れている。スカイスクレーパーをみつめる人々のまなざしは、それが周囲の空間をマーキングすることによってしか生まれることのできなかった意味ある空間へとむけられているのだ。
 

教団は、メディアとしての力量を試されている

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月16日(木)12時06分14秒
編集済
   かつて、日本中を震撼させた「ビックリマンチョコ現象」と呼ばれる出来事があった。「ビックリマン」は、日本中の「よい子」たちを、チョコレートを食べずに捨てるという「わるい子」へと変身させてしまったのだ。

 「ビックリマンチョコ」とは、某大手菓子メーカーが製造販売していたチョコレート菓子である。この菓子には、「ビックリマン」と呼ばれる正義の味方を主役とする、善悪さまざまに色分けされた魔界のキャラクターたちが印刷されたシールが、おまけとして入っていた。

 このシールには「魔界のうわさ」と称して、772人を数える「魔界キャラクター」の人物像やそれぞれの関係が記されていたのだ。このシールを集めて、そこに記された「うわさ」を丹念に組み立てていくと、「魔界」でおきている尋常ならざる事態が、「うわさ」を組み立てた子供たちの中で、次々とあきらかになっていったのである。

 子供たちの前にあらわれてきたのは、「神話的年代記」ともいえる壮大な叙事詩的物語であった。シールを集めれば集めるほど、さらに壮大な物語へとアクセスできることに子供たちは気づいたのだ。

 その結果、日本中の「よい子」たちは、中身のチョコレートを食べることなく捨て続けて、シールを集めることに熱中したのである。こうしたことが、大塚英志の『物語消費論』に、くわしく述べられている。

 『物語消費論』のなかに見ることができる子供たちの熱狂は、われらが信ずる宗教の存亡にも大きくかかわっているようにおもわれる。

 ロラン・バルトは『テクストの快楽』で、人が「書かれたもの」に関心をしめすのは、「他人の秘事をのぞき見したい」という助兵衛根性か、あるいは、「物語の結末を知りたい」という野次馬根性のいずれでしかないということを言い当てた。

 宗教の教祖というのは、物語を語ることができる人である。その物語とは、魔界のではなく、「異界の物語」である。教祖とは、「異界の物語」を、どこまでも詳しくよどむことなく、誰にたいしても語ることができた人である。

 教祖が去ったとき、物語は語られなくなる。語られなくなった物語は、「情報」として細分化ないしは断片化され、「書かれたもの」としてのこされる。人々が、そうした「書かれたもの」としての「異界の情報」にアクセスする際に必要となるのが、バルトのいう、「物語の結末を知りたい」という野次馬根性なのである。

 こうした「異界の情報」は、細分化ないしは断片化されているために、それにアクセスするものたちは、独力で、それらの情報をかぎりなく多く集めて、もとの物語へと再構築しなくてはならなくなる。もしもこのときに、人々の野次馬根性が発揮されなければ、とたんに人々は、やる気をなくしてしまうのである。

 「ビックリマンチョコ」に熱狂した子供たちは、分散された「魔界のうわさ」を、辛抱強くかきあつめて、それらを再構築するという異常な才能を発揮した。その結果、彼らは、壮大な「神話的叙事詩の物語」を、みずからのうちに創り上げることに成功したのである。

 ここで、われらが信ずる宗教の問題となるのが、「異界の情報」を適切に管理、保持して、なおかつそれらを適宜、人々に配信するという「メディア」としての役割を、教団本体が果たせるかということである。しかもなお、それらの情報には、大衆の野次馬根性を喚起するに十分な「壮大な物語性」が内包されている、ということが必須の条件となるのである。

 かんたんにいえば、「ビックリマンチョコ」の「魔界のうわさ」が、子供たちの野次馬根性を見事にとらえて熱狂させてみせたように、教団メディアは、みずからが配信する「異界の情報」によって、大衆の心をとらえ続けなくてはならないということなのである。

これができない教団は衰退するしかないだろう。教団本体のメディアとしての力量が試されている。
 

新宗教はモダンへと回帰する

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月15日(水)10時32分52秒
編集済
   昭和三十年代が脚光をあびている。あの時代は、いまとはあきらかに違っていたようだ。みんなが、希望を胸に、明るい未来を思い描いていた。みんなで努力して、一所懸命に突っ走れば、しあわせな未来が待っていると、誰もが信じきっていた。

 努力の甲斐あって、日本は、経済大国の仲間入りを果たした。欲しいものは何でも手に入れることができるようになった。そしてみんなしあわせには、ならなかった。

 「しあわせな未来」の幻想は、もろくも崩れ去った。虚しさだけがのこった。物質的な富を手に入れても、そのよろこびは一時的なものでしかなかった。物欲の追求は、飲めば飲むほどのどが渇く海水のようなものだということに、みんな気づいてしまった。

 物欲という後ろ盾をなくした自我は宙に浮いた。自分が自分であることに意味を見出せなくなった。自分とは何ものなのか、自問自答する。答えは見つからない。あせってみたところで、あるべき姿が見えてこない。自己不全感にさいなまれる。そんな日々が虚しく過ぎてゆく。

 この間に、宗教を取り巻く事情も大きく変化した。近代になって台頭しはじめた、新宗教と呼ばれる一群の宗教教団は、病気や貧困からの解放をうたい文句に、教勢の拡大をめざした。

 昭和三十年代、時代は「みんなで豊かになる」をキャッチフレーズに動きはじめた。病気が治れば、「みんなで豊かになる」レースに復帰できる。貧困からの解放は、まさしく時代のキャッチフレーズに合致するものだった。

 新宗教は発展した。時代の波にのって、またたく間に教勢を拡大させた。しかしやがて、時代は大きく変わりはじめた。いつの間にか、「みんなで豊かになる」レースは終わっていた。たとえ病気が治ったとしても、しあわせにはなれないことにみんな気づいた。貧困から解放されたところで、宴はすでに終わっていた。

 新宗教にあきたらなくなった人々は、新・新宗教に走った。新・新宗教は、現世からの超越を、道行く人たちにうったえた。修行によって神秘的な力を獲得すれば、現世を超越して、いまの自分とはまったく別の自分になることができる。そんなことを売り言葉に、新・新宗教は教勢の拡大を模索しはじめたのである。

 宙に浮いて行き場をうしなった自我は、新・新宗教にとびついた。これまでとは違う自分がそこにはあると、誰もが信じきっていた。そして「いままでとは違う自分、人とは違う自分になる」レースが、新たに展開されることになった。

 新宗教、そして新・新宗教の今日までの足どりをたどってみると、以上のような具合になる。新宗教が、近代にどっぷりと浸かって生長、発展してきたということがよくわかる。

 こうした成功体験が、新宗教の手かせ足かせとなっている。新宗教は、「脱近代」をめざす人々のニーズには、応えることができなくなっているのだ。「脱近代」をめざす人たちから見れば、新宗教は、彼らからすれば、すでに限界があらわになったモダニズム(近代主義)を維持しようとする反動装置のひとつでしかない。

 こうした人たちは、「脱近代」装置としの、新・新宗教へと流れざるを得なかった。この意味で、新・新宗教はポストモダン宗教と位置づけることができるだろう。

 新・新宗教には、大別して、終末論を唱えて近代そのものを否定しようとするセクト教団と、呪術や秘儀を中心に活動するカルト教団がある。いずれも、「脱近代」を希求する人々の心情をとらえている点で共通するものがある。

 新宗教にも、かつては、セクト的あるいはカルト的な一面があった。新宗教は、近代から生まれ、「反近代」を旗印に独自の宗教的思想を発展させたのだ。近代なかりせば新宗教もなかった。近代主義に毒された人々を覚醒させようと、「反近代」を標榜して、新宗教は歴史のなかに躍り出たのである。

 すでに述べたように、日本の高度成長期に、新宗教は飛躍的な発展をとげた。その結果、新宗教は、さらなる大衆化をめざすことになった。大衆化をめざすにあたって重荷になったのが、「反近代」を標榜することをやめようとしない、教団内のセクトないしはカルトの集団であった。

 新宗教は、こうした勢力の切り離しをはじめた。教団によってセクト的と判断された、根本主義、愛国運動、皇国史観は、それらを支持するものたちとともに、教義からことごとく切り離された。カルト的とみなされたオカルティスト、秘儀参入者、シャーニストたちも、すべて教団内から一掃された。

 近代とともに産声をあげた新宗教は、「反近代」の重荷を下ろし、いままたモダンへと回帰しようとしている。この流れが読めなければ、教団のなかで疎外感を味わうことになるだろう。
 

自分ってなんだろー

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月14日(火)13時40分20秒
   自分てなんだろう。もしこの世界に、自分だけがいて、ほかに誰もいなければ、自分が自分であることを知ることなんてできない。ほかの誰かがいるから、自分が自分であることがわかる。

 自分というのは、他者との関係のなかにしか存在できないということだ。他者との「関係性」によって、自分は、つくられている。

 部屋にひとりでいるときの自分と、おなじ部屋でも、ほかの誰かといるときの自分は、あきらかに別の存在だ。なぜなら、そこにある「関係性」は、まったく別の異なったものであるからだ。

 自分は、自分ひとりで自分になっているわけじゃない。いついかなるときも、ほかの誰かとの「関係性」によって、自分は自分となり得ているのである。

 このことがわかれば、自分が他者によってつくられていることがよくわかる。問題は、その他者とは、近代特有の他者でもあることだ。

 人は、日常的に他者とつながっている。パソコンやケータイという電子ツールで、他者とつながり続けている。近代以前にはなかった電子的な手段で、24時間フルに、他者とつながり続けようとしている。

 近代特有の他者は、さらに大規模な手段で自分にアクセスしてくる。テレビ、新聞、雑誌、電車の吊り広告、街中の巨大なディスプレー、あらゆる手段をもちいて、他者はアクセスし続ける。

 世界各地のモーターショーの写真を見ると、主役であるはずの乗用車のよこには、かならずうっとりするような美女がたっている。そこに美女がたつ必然性はない。どうしてそこにいなければならないのか。

 美女をつかうことによって、クルマへの注目度をたかめようとしているだけなのか。メディアはそんなに甘くはない。美女にたいする欲望を、自社のクルマにも投影させようとしているのだ。

 モーターショーにおとずれたクルマ好きの野郎どもは、目の前にいる美女を、メディアが許容する欲望の対象としてのみ見るようになる。そして、その欲望は、ほかのふつうの女性にたいしても向けられることになる。

 もはや、クルマ好きの野郎どもにとって、女は欲望の対象でしかない。メディアとの「関係性」によって、彼らは、そうした偏った欲望を、当然のごとく引き受ける羽目になったのだ。

 もしも、メディアが逆に、女を欲望の対象としてのみ見てはならないという戦略を実施すれば、世の男どもは、女性にたいしてむやみに欲望をいだくことはしなくなるだろう。そして、欲望をあおるという広告戦略をはなれた商品は、適度に消費されるようになり、地球環境の浄化にもつながることになるだろう。

 右にゆくも、左にゆくも、すべてはメディア次第なのだ。現代を生きるわれわれは、もはやメディアとの「関係性」からは逃れることができない。逃れることのできない「関係性」によって操作された「自分」を、誰もがほんとうの自分であると思い込んでいる。
 

初心者さまへ

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 7月13日(月)23時49分38秒
  どうぞ、どうぞ、存分に調子に乗って下さって良いですよ☆

何よりも、存分に喜んでいただけたのが、僕はメチャ嬉しいです。

調子に乗れるのは、いつまでも若い感性を把持し続けている証拠でもあります。

いつまでも僕は、アナタの応援者です!!

感謝拝
 

yutaちゃん讃へ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月13日(月)22時02分15秒
編集済
   yutaちゃん、ありがとうございます。

なんといったらいいのか、ここまで讃嘆してもらって、ホンマに感謝、感激なのであります。

>初心者さまの御文章を読んでいれば、わかることなのですが、なんというか…、とても深みのある味わいを感じるのです。

 「深みのある味わい」なんていっていただくと、お調子者のおいらは、すぐにその気になってしまいまするぞ。「軽薄なおいらにも深みがあったのだー」と、勘違いしてしまって、その路線を突っ走ってしまいそうであります。しかも、こんなことまで

>僕が最近出会った言葉に「優しい闘いに勝つことよりも、厳しい闘いに負けることのほうが強くなれる。」というのがあります。
僕の視点では、初心者さまの生き様には、厳しい闘いに負け続けながらも、強くしっかりと生長されてきたことが伝わってくるのであります。

 うん、うん。そうなんだよね、そうなんだよね。なんだかんだいっても、自分が招いたこととはいいながら、「厳しい闘い」に、ずっと、ずっと負け続けているんだよね。

 自分で勝手に厳しくしている部分もあるとはおもうけど、厳しい相手に闘いを挑んで、あっという間にやられて、それでもおいらは、自分にむかって「よく闘った」といってやりたいんだよね。

 そんな男の人生をわかってくれるyutaちゃんも、いい男だよ。男の中の男だよ。

>そして、それら故の素晴らしい文章を、色々様々な多岐に渡る分野を論じて楽しんでおられているように想うわけです。

 わかってもらえてるんだね。なんか調子に乗ってしまいそうだよー。おいらの人生も捨てたものじゃない。そんな気がしてきたよ。うろ覚えだけど、こんな言葉があったよね。

「それを為すものは、それを好むものに如かず。それを好むものは、それを楽しむものに如かず」。

 「楽しめる」って大事なことだし、すごいことなんだよね。人生を楽しめるようになったら、すごいよねー。こんな境地に、おいらもたどりつきたい。

 いろいろとほめてもらって、単純なおいらは、すっかり「その気」になっておりまする。それでも、坂道を下るときは胸をはってふんぞり返る。上るときは前のめりになってコウベを垂れる。これが坂道のコツであり、人生の鉄則でもありまするからな。調子に乗りすぎて道を踏み外さないようにしないとね。

 yutaちゃん、ホンマにありがとね。おいら、うれしい。
 

初心者讃

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 7月13日(月)21時07分22秒
  今夜は、しじみさまとは違った視点から初心者さまを讃嘆してみようと思い、カキコいたします。

初心者さまのこれまでの数々のカキコを読んでみて、御自身が語っておられる初心者さまの人生を考えて感じたことがあります。
それは、様々の経験を積んで来られているという、素晴らしい方であるということです。
何が素晴らしいかというと、その様々の経験を生かそうと努力し続けているということです。
初心者さまの御文章を読んでいれば、わかることなのですが、なんというか…、とても深みのある味わいを感じるのです。
僕が最近出会った言葉に「優しい闘いに勝つことよりも、厳しい闘いに負けることのほうが強くなれる。」というのがあります。
僕の視点では、初心者さまの生き様には、厳しい闘いに負け続けながらも、強くしっかりと生長されてきたことが伝わってくるのであります。
そして、それら故の素晴らしい文章を、色々様々な多岐に渡る分野を論じて楽しんでおられているように想うわけです。

ちょっと、僕の勝手な思い込みかもしれませんが、これからも、存分に当掲示板を賑わして下さいませ☆

感謝拝
 

おいらは、ゾンビ+スーパー透明人間

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月13日(月)16時11分16秒
   もしも量子力学を信ずるなら、世界は、ゾンビのような「死んでいるのに生きている」ものたちであふれかえることになるだろう。「ここにいるのに、ここにはいない」という、透明人間が真っ青になるような(どうやって?)ものたちによって占領されてしまうことになるだろう。

 この問題を解決するために科学者たちは、シュレーディンガーの猫や文殊菩薩は「小さな世界」にのみ存在するのであって、「大きな世界」には存在しないという密約をかわすことにしたのである。

 これによって「大きな世界」には、ゾンビもスーパー透明人間も存在しないということになって、「めでたしめでたし」となったわけである。

 しかし、「小さな世界」と「大きな世界」を、どこで線引きしてわけるのかとなると、これがはっきりしない。ここまでが「小さな世界」で、ここから先が「大きな世界」といって区別することなど、ドダイ無理な話なのである。

しかも、である。「大きな世界」といえども、それはすべて、素粒子という「小さな世界」が集まってできているのである。「大きな世界」が「小さな世界」から独立して存在するなんてことは、断じてない。

 「小さな世界」でおきることは、どうしたって「大きな世界」でもおきるはずなのである。事実、スティーヴン・ホーキングという宇宙物理学者は、宇宙という、とてつもなく「大きな世界」を、一匹のシュレーディンガーの猫に見立てて「宇宙論」を展開したではないか(ホンマかいな)。

 つまり、科学者たちがどんな密約をかわそうとも、世界は、ゾンビやスーパー透明人間であふれかえることになるのである。しかし事実は、それとは逆である。そんなものはどこをさがしても見つけることはできないのである。

 彼らはいったい、どこに隠れているのだろうか。この隠れ家を見つけたのが、あの有名なヒュー・エヴェレット三世である。三世はいった。「ヤツらは、並行宇宙に隠れているのだ」と。

 三世はさらに続けた。「この世界は、無限の変数をふくむ複素ベクトルでできている」と。そう。世界は、三世のいうがごとく、無限次元の複素ベクトルで定義される「ヒルベルト空間」と呼ばれるものでできているのである。

 この無限次元の「ヒルベルト空間」の各次元に、ひとつの世界がある。おいらたちが住むこの世界も、「ヒルベルト空間」のなかのひとつの次元に存在する世界なのだ。

「ヒルベルト空間」の無限の次元には、無限の宇宙がある。そして、無限の宇宙には、無限のおいらが住んでいる。そのおいらを全部あわせると、おいらはゾンビとなり、スーパー透明人間になるのである。

 しかし、おいらが、どう逆立ちしたところで、、全部あわせるなんてことにはならない。だからこの世界に、ゾンビやスーパー透明人間が出てくる心配はない。そんなわけであるから、諸君、安心してくれたまえ。
 

年齢、容姿、重力、すべて不問のワケ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月12日(日)13時20分46秒
   ずいぶん前にテレビで、トム・ハンクス主演の『ターミナル』という映画をみた。哀愁ただよう切ないラブストーリーであった。この映画のヒロイン役の女優がずっと気になっていた。いつまでたっても気になって仕方がないので、どういう女優なのか、名前をしらべてみた。

 するとその女優は、なんと、あのキャサリン・ゼタ=ジョーンズだったのだ。キャサリン・ゼタ=ジョーンズといえば、おいらがいちばん好きな映画女優なのだ。キャサリン・ゼタ=ジョーンズ以上に好きな映画女優はいない。なのにおいらは、テレビを見ていてわからなかったのだ。

 こんなことはめずらしい話ではない。日本の女優で、おいらがいちばん気に入っているのが鈴木砂羽なのであるが、以前、テレビの連続ドラマにずっと出演していたにもかかわらず、その女優が鈴木砂羽であることに気づいたのは、最終回だった。

 「これは鈴木砂羽じゃないかー」と気づいたときはすでに最終回。ジダンダ踏んでくやしがったのはいうまでもない。

 鈴木砂羽がどれだけ好きかというと、ドラマのなかで渡辺いっけいと結婚したときに、おいらは本気で嫉妬した。渡辺いっけいが嫌いになった。そのあとも、渡辺いっけいは、鈴木砂羽との結婚を続けた。

 鈴木砂羽のブログによれば、これまで結婚回数のいちばん多いのが渡辺いっけいなのだという。渡辺いっけい憎しのおもいは、ますますつのるばかりなのである。

 最近は、こんなこともあった。「ザ・クイズショウ」というドラマに歌手の松浦亜弥が出ていた。「かわゆい〜」とおもいながら、それが松浦亜弥であることを知ったのは、これまた最終回のことだった。

 松浦亜弥にかんしては、「あんな小便くさいガキの歌なんか聴く気にもならん」とずっと無視していたのであるが、あるとき、『服部良一生誕百周年記念トリビュート』というCDアルバムで、トランペッターの日野皓正とのコラボレーションで、松浦亜弥が歌う『ラッパと娘』という曲を聴いたのであった。

 これにはおどろいた。終戦直後のアプレ娘のごとき軽薄な欲望と熱情を、松浦亜弥がみごとに歌いきっているのだ。こうした表現力と歌唱力があったことに心底おどろいたおいらは、さっそくCDを買って聴いた。以来、松浦亜弥は、好きな歌手のひとりなのである。

 その松浦亜弥がずっと出演していたにもかかわらず、やはりおいらは、最後まで気づくことがなかったのだ。いったいこれはどうしたことなのだ。おいらには、女子を識別する能力がないということなのだろうか。

 たしかにそうなのだ。おいらには、女子を識別する能力が、ほんらい的に欠けているということがいえそうなのである。相手が男であれば、まちがいなく識別できる。なのに、女子となると、まるっきし識別できない。

 ここでおいらは考えてみた。もともと、生物というのはそんなものなのではないかと考えてみたのである。自分がオスであるとすれば、目の前にべつのオスがあらわれたとき、そのオスが自分より強いかどうかを判断する必要にせまられる。

 野生のオスというのは、相手がどんなオスであるのかを、できるかぎり正確に知る必要があるのである。自分より強ければ逃げるかこびるかのどちらかを選択しなければならないわけであるし、自分より弱いとおもえば、威嚇して追い払うということもできる。

 しかし、相手がメスであれば、判断の必要はない。動物というのは、一生のあいだ、ずっと生殖能力を維持し続けるので、相手が若いかどうかということさえも判断する必要がない。メスでありさえすれば、それで十分なのである。

 ようするにおいらは、女子でありさえすれば、誰でもいいということなのだ。男だけを識別できて、女子はまったく識別できないということは、異性とのかかわりにおいておいらは、野生動物とたいしてかわらない動物的状態におかれているということなのだ。こんなことに気づいてしまうことに、おいらの悲劇性と喜劇性がある。
 

しじみ讃へ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月12日(日)13時00分41秒
   しじみさま、ありがとうございます。

 わけのわからないおいらの投稿をしじみさんが読んでくださっているとは、おもいもよりませんでした。「知の世界」というよりも「無恥の世界」といったほうがいいようにおもいますが、「匿名の恥はかき捨て」とばかりに、恥ずかしいことをいっぱい書いております。

 それでも讃嘆していただけることに、生長の家の人らしいおもいやりを感じないではおれません。やさしい言葉をかけてくださり、ほんとうにありがとうございます。
 

初心者讃

 投稿者:しじみ  投稿日:2009年 7月12日(日)09時41分11秒
  いつも、秘かに拝見させていただいております。
初心者様の知の世界、、漂わせていただいています。

ここの掲示板の、、、タイトル通り。

すばらしい初心者讃。
いつもありがとうございます。
 

ロレックスがなんぼのもんじゃ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月10日(金)19時01分25秒
編集済
   機械式の腕時計も、高機能なものとなると「複雑時計」の異名をもつようになる。機械式の腕時計にストップウオッチがつけばクロノグラフと呼ばれるようになる。「複雑時計」は、ストップウオッチにプラスして、ぜんまいの巻き残量をしらせるパワーリザーブ、月齢がわかるムーンフェイズ、うるう年を自動的に補正する永久カレンダー、暗い場所でも音で時刻をしらせるミニッツリピーターといった機能が、小さなケースに、ところせましとつめこまれることになる。

 「複雑時計」は価格的にも高機能で、ビンボーなおいらにはまったく縁のないシロモノであるが、かりに買えたとしても、あまり欲しいとはおもわない。おいらの性格としては、時計は可能なかぎり正確でないと気がすまない。正確性という点では、平均月差という言葉さえもほうむりさってしまった電波時計にまさるものはない。

 電波時計には、いかなる修正も不必要なカレンダー機能もある。LEDライトで暗いところでも時刻はわかる。いずれそのうち有機ELで全面照明となって、きわめて安価な価格で発売されることになるだろう。ミニッツリピーターの出る幕など、どこにもないのである。

 そうはいっても、「複雑時計」には、所有することにたいするよろこびや満足感があり、ときに、人に見せびらかすことができるという利点もあるので、そういったことにかんしては、「複雑時計」の価値をみとめるにやぶさかではない。しかしそれでも、めんどくさがりやのおいらには、手間いらずで正確無比な電波時計がある以上、わざわざそれ以外の選択をするなんてことは、たとえ支払い能力があったとしてもありえない話なのである。

 複雑な機械ということでは、そのばかばかしさにおいて、ルーブ・ゴールドバーグ機械の右に出るものはない。ルーブ・ゴールドバーグ機械は、簡単にできることをわざわざ複雑にやっていこうというコンセプトのもとにつくられる。

 やかんでコップに水をいれるという誰もが簡単にできることを、雨どいのような器具や鉄球、風船その他いろいろな部材を使い、壮大な手間と空間を浪費しつつ、あほらしいほどの時間をかけてつくった機械をつかってやろうとするのである。機械に仕込まれたギミックのような仕掛けが、ドミノ倒しのような手順で次から次へと連鎖的につたわってゆき、最後にやかんがかたむいてコップに水が入るという、誰が考えてもばかばかしい仕組みになっている。

 簡単にできることをわざわざ複雑にするということでは、「複雑時計」もルーブ・ゴールドバーグ機械の一種といえるかもしれない。「複雑時計」をルーブ・ゴールドバーグ機械にみたてて、おなじ機構をもった装置を30メートル四方の大きさでつくったところで、欲しがるものは一人もおるまい。

複雑な仕組みをもった機械を、これ以上は不可能というくらいのコンパクトさで、しかもそれを第一級の職人が手作りで美しく仕上げるという点に「複雑時計」の存在価値はある。ルーブ・ゴールドバーグ機械の一種と揶揄するのは、それを買えぬもののひがみ根性であるのはまちがいない。

じつのところ、おいらがやっている「真理の追究」も、簡単なことをわざわざ複雑にするということでは、ルーブ・ゴールドバーグ機械とたいして変わらぬ気がするのである。「現象はない。実相のみがある」と、これですむことを、あーだこーだと複雑にしているだけなのかもしれないとおもう。

しかしそれでも、ルーブ・ゴールドバーグ機械にも、ひとつの大きな利点があることをいっておきたい。ルーブ・ゴールドバーグ機械は、なぜそれがおこるのかということが一目瞭然でわかるのである。

雨どいのようなスロープを鉄球が転がっていく。鉄球がぶつかったいきおいで針金がうごいて風船が破裂する。そうした仕組みが誰にでも簡単に理解できるような仕掛けになっているのである。

「現象はない、実相のみがある」はたしかにシンプルでわかりやい。しかし何かが実現するにしても、その仕組みがさっぱりわからない。何がどうなってそんなことになってしまうのか、それがまったくわからない。

おいらは、ルーブ・ゴールドバーグ機械のような、あきれるほどに大仰な仕掛けであったとしても、その仕組みがひと目でわかるような「真理の体系」をつくりたい。そんなことを考えながら、掲示板に投稿し続けているのである。
 

グッドタイミング

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月10日(金)12時07分13秒
編集済
   ものごとというのはグッドタイミングでおこるものだ。禅に「そったく同時」という言葉があるように、「与えようとするもの」と「得ようとするもの」とのシンクロニシティは、けっして見逃してはならない、唯一無二の絶好の機会なのである。

 グッドタイミングはぜったいに見逃してはならない。ものごとがタイミングよくおこったとしても、それに気づけなければ何にもならない。

 時間には、クロノス時間とカイロス時間のふたつがあるといわれている。クロノメーターというのは、機械式の高級時計につけられる名称である。クロノス時間は、機械式の時計のごとく、一定の方向に向かって、時を機械的にきざみ続ける。

 これにたいして、カイロス時間は、人間にとって意味のある時間となる。万葉集随一の秀歌で、額田王の作とされる「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」は、カイロス時間を詠んだものだ。

 「船乗りせむ」といっても、釣りや遊覧に出かけようというのではない。日本海の千波万波をこえて、いくさのために朝鮮半島まで出て行こうというのである。それがいかに危険なミッションであるかは、子供でも知っていた。

 航海といくさの無事を願って、船出を見送るために熱田津にあつまった人々は、よき航海となるためのカイロス時間を見計らっていたのだ。ときついに満たれりという、その瞬間のカイロスをとらえた人々の祈りが、この歌には詠み込まれているといってよい。

 カイロスは、ギリシャ神話の神である。カイロスには、前髪だけがあって、なぜか後頭部には髪が生えていない。「チャンスの神は前髪しかない」のである。

 グッドタイミングにたとえ気づけたとしても、躊躇していれば、チャンスは逃げていく。うしろから追いかけていったところで、もはやつかまえることはできない。

カイロスを見逃すな!

 グッドタイミングだと気づいたときが、その人にとってのカイロスなのである。全力で前髪をつかむよりほかはあるまい。


追記:「そったく」を漢字で表記すると文字化けが生ずるので、やむなくひらがなによる表記となりました。「『そったく』ぐらい漢字で書けよ」といわれそうなので、いちおう弁解のために。
 

お役に立てたようで

 投稿者:一来訪者  投稿日:2009年 7月 9日(木)18時22分31秒
編集済
   グッドタイミングだったことでお役に立てたようですが、ご教示などとは
おこがましい限りです。

 >腹にストーンと入ってきました。

と、言われますように、受け取るのはその人その人の自覚にあり、生命は個別化
されている通り、自分(初心者さん)の 命は、ここにあり と高々と掲げ、
そして、ますますの発展と、飛躍を期待しております。
 

信じます

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月 8日(水)18時19分31秒
   一来訪者さま、ありがとうございます。

>今の私達が地動説を信じるように、生命の実相を信じましょう。

 そのとおりですね。どこまでも、とことん信じてまいりましょう。一昨日あたりより、おいらは、「筆記優先モード」から「体験優先モード」へと突入いたしました。

 信ずるためには、なによりも体験が重要でありますからね。これからしばらくは「体験優先モード」でまいります。「筆記優先モード」の半年間で、潜在意識に、これまでになかった思考パターンを、しこたま詰め込むことができました。自分自身の「先行き展開力」にも、けっこう期待がもてるようにもなりました。

 一来訪者さま、いろいろとご教示いただいて、ほんとうにありがとうございます。一来訪者さんがおっしゃっておられることが、グッドタイミングで、腹にストーンと入ってきました。
 

信じましょう。

 投稿者:一来訪者  投稿日:2009年 7月 8日(水)12時17分16秒
編集済
  またまた、私の厚かましいこじつけですが、聞いてください。
コペルニクスさんが地動説を説いたように、谷口 雅春先生は「生命の実相」を
説かれたのです。

 私達は現象をあるように思っているし、見ているのですが、その見ている状態は
天動説で言う世界を見ているようなものです。ほんとうのすがたは、地動説の世界が
展開しているように、実相である生命の世界が展開しているのが真理ですと。
その、生命の実相の自覚によって、命の力が働き私達の不幸を癒してくれると
云うのが、私の生命の実相の受け取り方です。
 知ろうが知るまいが、信じようが信じまいが、宇宙では地動説の世界が展開して
いますし、人類には生命の実相世界が展開しています。今の私達が地動説を信じる
ように、生命の実相を信じましょう。
 

等価交換

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月 7日(火)13時29分31秒
   経済活動の基本原則は「等価交換」である。チキンラーメン一袋に二百円払ってもいいという人は少ないにきまっている。失うものと得るものとの釣り合いを考えながら、たいていの人は行動するはずだ。

 とはいうものの、失うより得るものを多くしたいというのが人情で、神にたいしては、とくにこうした傾向が顕著になる。人はけっして、百円の賽銭に見合った願い事はしない。金額に換算すると、途方もなく大きな額の願い事をする。

 「志望校に通りますように」、「恋愛がうまくいきますように」、「今年こそは出世しますように」などなどである。もっとも、はじめから神の力が効くなどとは本気でおもっておらず、「もしかしたら」のあわい期待であるので、百円が妥当と考えているのかもしれない。

 じっさいに効くとなると、もっと多くの額を払うにちがいない。神が「病気を治してやる」といえば、それを信じる人は、有り金すべてを寄付したりもする。効くとおもえば、神にたいしても、人は「等価交換」の原則を適用する。

 信ずる神に何かを求めようとすれば、それに見合った犠牲を払う必要があると、多くの人は考える。場合によっては、同胞の命をいけにえとして捧げることさえある。ふつうは、そこまでのことはしないにしても、何らかの犠牲を、と考える。

 自分自身の行動に規制をくわえることもある。「茶断ち」などというのは、その典型的な例である。自分がやりたいことを禁止して、それとの「等価交換」によって、神仏に願いを聞き届けてもらおうという算段である。

 しかしおいらはおもう。神にたいして「等価交換」というのは問題なのではないか。神からいただくものは最大限にして、支払うものは最小限にすべきである。それが神と人間との損得勘定なのではないかとおもうのである。

 もちろん、自分にとって価値あるもので、それを神にたいして捧げるべきものもある。名声がほしいとか、人の上に立ちたいとか、すべての富を自分のものにしたいとか、そうした自分にとってのみ大事な欲望は、神に捧げたほうがよい場合もある。

 しかし、たいていのものは、捧げずにとっておくべきではないか。おいらたちには、この地上に、神の持ちものを増やさなくてはならない義務があるはずだ。神の持ちもので、地上をいっぱいにする使命があるはずなのだ。

 「等価交換」をしていたのでは、せっかく手に入れは神の持ちものを、ふたたび神に返してしまうことになりかねない。「等価交換」を大義名分に、そんなことばかりをくり返していたのでは、地上に神の持ちものが増えることはない。

 神からいただけるものは、それが何であれ、遠慮せずにもらい続ければよい。何かお返しをせねばと考える必要はない。どうしてもというのであれば、神がよろこびそうなものを、ささやかな気持ち分だけ返せばよいのである。

 お返しなどというせせこましいことはいっさい考えずに、神の持ちものをドンドンといただくことにしよう。そうすれば、これまで執着していたものが、いかにつまらないものであったかということにも気づくだろう。
 

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