投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
  ファイル1
  ファイル2
  ファイル3
アップロード可能な形式(各1MB以内):
画像(gif,png,jpg,bmp) 音楽(mmf,mld) 動画(amc,3gp,3g2)

 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ ]

投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

全640件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 

意志の力

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月30日(木)12時00分59秒
編集済
   これから意志について書こうとしているところである。意志の力といっても、不断の努力で何かを継続してやっていこうという、おいらがもっとも苦手とすることを書こうというのではない。霊的な観点からみたとき、意志とはどんな姿でもって立ちあらわれてくるのだろうか。こうしたことについて、これから書こうというのである。

 すでに何度か書いてきたように、意志は、意識のかなりくらい部分にかくれている。だから、普段の生活のなかで意志そのものを実感することもないし、その所在があきらかになることもない。

 それで、意志というものが何をしているのかということはあまり知られていないということになっているので、そのことについて「受け売り」を交えながら書いてみたいとおもうのである。

 意志の力のほとんどは肉体の機能を維持するためにつかわれている。心臓を動かしたり呼吸したり、食べたものを消化したりするのは、すべて意志の力がやっていることである。肝臓や腎臓の分解力や生成力、そして浄化の仕組みが維持されるのも、みんな意志が、日夜休むことなく全力でその役割を果たしているからこそなのである。

手足を動かすのも意志の力である。マラソンランナーが42.195キロを走り続けるのも意志の力であり、テニスプレーヤーがフルセットを闘いぬくことができるのも意志の力によるものである。人間が生きて、努力して、運動して、仕事を続けることができるのは、すべて意志の力があればこそである。

日々の暮らしのなかで、単調な作業をくり返すことができるのも、目標にむかってまい進できるのも、為すべきことを成し遂げられるのも、みんな意志の力がはたらいているからこそなのである。

意志は、そのもてる力のほとんどを肉体や生活の維持のためにつかわざるを得ないのだ。文句もいわずに身を削ってはたらき続ける。肉体の活動が活発であればあるほど身を削る。肉体の機能が衰えないかぎり、意志は、その霊的な姿をあらわすことができない仕組みになっているのである。

肉体の機能が衰えるころになって、意志はようやくそのほんらいの姿をあらわしはじめる。老化によって肉体の機能がおとろえたとき、意志は、霊的な輝きを強めはじめるのである。「こころある道」を生きてきた人には、そのことがわかるはずだ。

老化とは神秘である。魂が、ほんらいの姿へともどるためのプロセスである。老化に抵抗することに意味はない。死であってさえも、抵抗することに本質的な意味はない。

意志は、肉体の死によって、その勤めから解放される。意志はほんらいの自分に目覚める。意志とは、神の叡智が魂に刻印されたものだ。すべての人の意志は、肉体を捨て去ることによって、ふたたび神の叡智として輝きはじめることができるのだ。
 

あゆみさんへ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月30日(木)10時13分21秒
   本をご紹介いただいてありがとうございます。調べてみましたが、すでに絶版となっているようですね。機会があれば斜め読みなどしてみようかなとおもいます。

 マザコン本は、そこそこ読んでみたりしましたが、あまり効き目はなかったみたいです。興味をひかれたのが「交流分析」という手法でしたが、好奇心が刺激されたり、問題の所在がある程度まではわかったりはしましたが、自分のなかの何かがかわるというようなところまでは行かなかったような気がします。

それでも、「わかる」のと「わからない」とではずいぶんな違いがあって、「わかること」で自分を客観的に見ることができるようになって、気持ちはかなり楽にはなりましたね。

>初心者さんが何歳なのか知らないし、初心者さんの問題と重なるかどうかもわかりませんが

 相手のことが何もわからないというのは、なにかにつけてやりにくいですよね。生長の家と関係のないあゆみさんにだけは「こそっと」と伝えたいというのもあるんですが、生長の家の人には知られたくない理由がいくつもあるんです。何かヤバイ感じ、おいらって、ほら、異端だから。

>初心者さんは自分の心理的な問題をわかろうとされているんですね。何となく真剣さが伝わってきます。

 そうですね。生き方の方向感といったものが、定まっているようで定まっていないといった感じなので、まだまだ自分の内面の問題とも向き合っていかなければならない段階にあるのかな、とはおもいます。

 自分のなかに、自分の足をひっぱる心理的な要因があるとすれば、それが何であるのかを知る必要がありますからね。そういった要因があるにもかかわらず、無思慮に突き進んでいくと間違った方向へと導かれてしまう可能性があるので、そのあたりのことはできるだけすっきりさせておきたいというふうに考えています。
 

わかること

 投稿者:あゆみ  投稿日:2009年 7月29日(水)20時32分6秒
編集済
  この掲示板を管理されているのは。yutaka★hajime^^さんとうかがいました。
yutaka★hajime^^さん、またあゆみに一言書かせてやってください。

初心者さんの記事を読んで、こんな本どうかなと思い浮かぶものがありました。
「見られる自分 マザコンと自立の臨床発達心理学」鈴木研二著 創元社
初心者さんが何歳なのか知らないし、初心者さんの問題と重なるかどうかもわかりませんが、昔話と絡めて書いてあって、読み物としても面白いですよ。
(作者は「境界を超えて―シャーマニズムの心理学」を訳したりもしています。)
興味があれば、図書館ででも借りて、斜め読みでもしてみては?
初心者さんは自分の心理的な問題をわかろうとされているんですね。何となく真剣さが伝わってきます。
本文より「気づきが深くなると、心が動き出す。わかることが深いレベルに及ぶと、人間はかわるのである」
 

対人恐怖症

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月29日(水)15時41分20秒
編集済
   もしかしておいらは対人恐怖症なのだろうか。いままでそんなことは考えたこともなかった。しかしそれは、考えたくないから考えなかっただけなのかもしれないのであるから、考えたことがないからといって、それをもって自分が対人恐怖症ではないといい切れるほどには楽観もできないような気がするのである。

 そうはいっても、人の前に立つのと三百メートルの断崖に立つのとでは、その恐怖の大きさにおいてあきらかな違いがある。人の前に立つのがたしょう苦手であるからといって、それをもって恐怖症ときめつけるのには少なからぬ抵抗がある。

 人の前に立つときにまっさきに気になるのは、相手が自分をどんなふうにおもっているかということだ。しかしこればかりは、いくら気にしたところでわかるはずがない。あれこれと考えすぎて、余計なことを想像しなくてはならぬ羽目になる。

 哺乳類というのは、そのほとんどがモノトーンの世界で生きている。魚類や鳥類は色覚が発達しているので、からだの色も赤、黄、青とカラフルである。これにたいして、哺乳類は地味だ。白、黒、茶といった色がほとんどだ。

 モノトーンの世界に生きている哺乳類にとって、カラフルな色に意味はない。だから地味でもかまわない。霊長類は、相手の色が気になりだした。それで、いったんは退化した色覚を復活させることにした。その結果、人もサルも、モノトーンの世界を出てカラフルな世界に生きるようになった。

 これもひとえに、相手の顔色を見んがためであった。霊長類の顔は体毛でおおわれていないので、顔色を観察すれば、相手が何を考えているかを推測できるし、激怒していることぐらいは察しがつく。だから霊長類は、色覚を発達させる必要があったのだ。

 こんなわけであるから、人類にとって、相手の気持ちを知るということは、ことのほか重大である。しかし、だからといって、相手の顔色をうかがっていさえすれば、それですべてことがすむというほどには事態は単純ではない。

「忍ぶれど色に出にけり我が恋は物や思うと人の問ふまで」といにしえの歌にあるがごとく、色に出るというのは相当に強い思いがあるからこそであって、日常生活での何気ない思いというのは、そんなに簡単に色となって出てくるものではないのである。

それゆえ人は、顔色の観察だけではなく、ちょっとした表情の変化や言葉の調子、態度などから、相手の何気ない気持ちをおもんばからなくてはならないということになってくるわけである。

 問題は、そうした「おもんばかり」がどのような手段でなされているかということだ。この手段の出来不出来の差が、対人関係の成否に重大な結果をもたらすことになるのである。

 人間の脳にはミラーニューロンと呼ばれる神経細胞がある。鏡のようなはたらきをするのでその名がつけられたようだ。じつは、このミラーニューロンの取り扱いの良し悪しこそが、人の対人関係の良し悪しをきめるといっても過言ではないのである。

 ミラーニューロンは、相手の行動を、まるで自分の行動であるがごとく認識する。自分がバナナを食べていようが、相手がバナナを食べていようが、ミラーニューロンは、まったくおなじものとして認識するのである。

 ひとつの神経細胞が複数の処理をすることで、脳は、その活動容量を節約している。自分のことも相手のことも一緒くたに処理すれば、脳の活動のかなりの部分を節約できるのだ。節約したために、人は、自分が食べているのか、相手が食べているのかわからなくなった。これでは困るので、最後のほうで、それが自分の行動であるのか、それとも相手の行動であるのかを識別する仕組みになっている。

 こうした識別は学習によって可能となる。自分が食べたつもりでも腹がふくれなければ、相手が食べたのだということがわかる。自分が走っているのか、相手が走っているのがわからなくても、疲れを感じなければ相手が走っていることに気づくことができる。

 こうした学習を積み重ねることで、自分の行動と相手の行動を識別できるようになるのである。問題は、それが行動ではなく、気持ちの場合はどうかということだ。ミラーニューロンによって一緒くたに処理された自分の気持ちと相手の気持ちが、最終段階でうまく識別できるようになるかどうかということだ。

 相手がバナナを食べているのであれば、それを見ることで確認できる。自分の腹がふくれなければ、相手が食べているのだと簡単に学習できる。相手の気持ちにしても、それが怒りとか、悲しみとかの極端なものであれば、その表情や言葉遣い、あるいは態度によって知ることができる。だから、その怒りや悲しみが誰のものなのかは学習できる。

しかし、日常的に接しているときの相手の気持ちは、簡単には知ることができない。自分のことを好きなのか嫌っているのかさえも、知るのはむつかしい。だから、たとえば自分のなかに「嫌い」という感情がでてきても、それが自分のものなのか相手のものなのかを判断する方法がない。

自分が相手を嫌っている場合でも、ミラーニューロンは、それを、自分の気持ちとしてだけでなく、相手が自分を嫌っているというふうにも認識する。ミラーニューロンが認識した気持ちが誰のものであるかが、最終的に識別できなければ、自分が相手を嫌っているのか、それとも相手が自分を嫌っているのかがわからなくなってしまうのだ。

ここでもし誤って、相手が自分を嫌っていると勘違いしたとする。これがバナナであれば、空腹感によってその誤りを修正することができた。しかし、自分が嫌われているという勘違いは修正することができない。なぜなら、自分のなかに「嫌われている」という感情が実際におこってしまうからである。

バナナのときは、勘違いによって満腹を感じることはなかった。だから学習できたのだ。しかし、嫌われているという勘違いは、実際に「嫌われている」という感情がおこってくるので、学習することができないのだ。だから、ほんとうに「嫌われている」と思い込んでしまうことになる。

人との関係で、おいらがもしその関係を「嫌だな」とおもったとしたら、おいらのミラーニューロンは、相手も「嫌だな」とおもっていると認識する。その間違いを、おいらは修正できない。だからおいらは、相手も、おいらとの関係を嫌がっていると思い込む。

自分も嫌だとおもい、相手も嫌だとおもっている、と思い込む。こんな関係がいつまでも続くことになる。これでは、誰だって嫌気がさすにきまっている。人との関係が嫌になるにきまっている。

対人関係の問題の多くは、こうした勘違いによって生じているのかもしれない。しかし、それが勘違いであるかどうかを判断する決め手がない。相手は、ほんとうに自分との関係を「嫌だ」とおもっているかもしれないのだ。その思い込みが、ミラーニューロンによって仕掛けられた策略によるものなのかどうか、それを判断するすべがない。

ただひとつはっきりしているのは、相手は、自分の心を映しただす、ただの鏡である場合もあるということだ。そこにあるのは、相手に映った自分の姿だけなのかもしれない。それなのに、それを相手の姿であると思い込んで怖れをいだく。対人恐怖症といっても、その正体はこの程度のものなのかもしれない。
 

実相への道

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月28日(火)15時26分56秒
編集済
   きのうは、わけのわからないことばかりを書いて、しかも、二回も投稿してしまった。記事をご覧いただいたみなさまにはすっかり迷惑をかけてしまったと、反省しきりといったところなんだけど、懲りずにまた続きを書こうとしている。

 といっても今回は、きのうを反省することで、自分がなにをいいたいのかを、もっとわかりやすく伝えようとおもって書いている。

 きのうも書いたことだけど、人間の意識には、あかるい部分とくらい部分があるので、人は、物質とか思考とかは、あかるく鮮明なイメージでとらえることができても、意志とか実相とかとなると、くらすぎてそのイメージをとらえることはできないということになっている。

 こうしたことにかんして、宗教にどんなことがおきているかというと、あかるい部分である物質を「現象はない」といって否定し、思考を「真理はアタマで考えてもわからない」と捨て去って、かわりに、くらい部分である意志を「行」として取り入れることによって、さらにくらい部分である実相へと到達しようということになってきているのである。

 簡単にいえば、宗教は、意識のあかるい部分を相手にせずに、くらい部分だけを相手にしているということになるんだけど、こうしたことが、宗教を信仰する人たちをものすごく困惑させているんじゃないかということを、おいらはいいたいのである。

 一般的に宗教は、意識のあかるい部分を「迷い」であるとか「転倒妄想」であるとかといって否定する。そして、くらい部分にこそ真実がかくされていると考える。

たしかに、こうした考え方には一理あって、意識のあかるい部分だけを相手にして生きていても、人はけっしてしあわせにはなれないわけだし、いつかはかならず終わる人生に意味を見出すこともできないということになってしまうのである。

それなら、くらい部分を相手に生きていれば、それでしあわせになれるのかというと、それもなかなか簡単にはいかないのである。

くらい部分というのは、通常の意識でとらえることはできないので、そこに何かがあるということを実感することができない。そこで信仰者は、何も実感できないままに、本を読んだり話を聞いたり「行」にはげんだりといったことを、相当に長い時間をかけて続けなくてはならないということになってくるのである。

しかも、たとえ長い時間をかけて修行にはげんだとしても、「悟り」へと到達できるものはごくわずかである。たいていは、途中で挫折するか、「ここまで来れたのだから」と適当なところで満足することになる。

けっきょくのところ、意識のくらい部分で生きていくというのは、「何も実感がもてない」という意味で、けっして楽なことではないのである。修行を続けているうちに、「このままでいいのか」と疑念がわいてきたりもする。暗中模索を続けていくことに気持ちが折れそうになることもある。

そこでおいらは、そういった険しい道をいくことを早々に断念して、その代わりに、意識のあかるい部分で、人とはちがう生き方をしてみようと考えるにいたったわけである。

その道をいくにあたって、まず最初に考えなくてはならないことがある。それは、宗教や真理に関心のない人たちの多くは、「物質」や「思考」といった意識のあかるい部分だけを体験して、それがすべてだと思い込んでいるので、宗教をやっている人たちからすると「迷っている」とおもわれるわけなんだけど、ほんとうに彼らは「迷っている」だけだと考えていいのであろうか、ということなのである。

たしかに、そうした人の多くは、「物質」をアルとおもい、「実相」をナイと思い込んで生きている。結果だけをみれば「迷い」である。

しかし、もっとべつの考え方はできないのだろうか。結果が「迷い」だからといって、はじめからすべてが「迷い」だと決めつけることはできないのである。

神様は、この世界を、わざとそのように創られたのだと考えることはできないだろうか。「実相」をわざと意識のくらい部分にかくしておいて、「物質」や「思考」をあかるい部分におくことで、そこに注意がいくように仕向けておられると考えるのは間違いなのであろうか。

おいらには、どうも神様が、そんなふうな仕組みを、意図的にお創りになったとしかおもえないのである。「意識のあかるいところを見よ」と神様がいっておられるようにおもわれてならないのである。

もしそうなら、真理は、意識のあかるい部分にもかくされている。おいらは、人とはちがう考え方を実践してその真理を見出しさえすればいいのだ。

そのための方法のひとつが「日時計主義」なのだとおいらはおもう。ただ漫然とあたえられた「表象」をながめるのではなく、自分の感覚を信じて、そこに何があるのかを「判断」する。一種の「行」といえなくもないが、結果はつねに意識のあかるい部分にあらわれてくる。こうしたことを続けてゆけば、意識のくらい部分は必然的にあかるくなってゆくはずだ。

そうなれば、実相は、ほうっておいてもむこうから勝手にあらわれてくる。おいらはこんな楽チンな道を夢想しているのであるが、これをはたして異端というのであろうか。
 

実相が自覚できないのには構造的な要因がある

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月27日(月)17時46分34秒
編集済
   霊的ヒエラルキーという観点から、物質、知性、感情、意志といったものを考えてみると、興味深い事実があきらかになる。その事実とは、霊的なレベルが低いものほど、人はそれをより明確に自覚できるということである。

 もっとも低いレベルの物質は、もっとも鮮明な現実として自覚される。物がそこにあれば、疑うべくもない明確な自覚をもって、その存在を認めることができるのである。

 次に低いレベルの知性は、思考力といいかえてもよいだろう。思考力を、人は、物質に次ぐ鮮明さでもって自覚することができる。思考の内容は、それが明確であるがゆえに、言葉によって具体的に表現することができる。もしも明敏な思考力をもつものであれば、物質を相手にするのとおなじくらいの感覚で、みずからの思考を自在に操ることができるだろう。

 知性よりも霊的なレベルが高いとされる感情は、思考力ほどの明確さはなく、自在に操ることもできない。自分のなかに感情と呼ばれるものがあるのはわかっていても、言葉による表現には限界があるし、場合によっては、自分がいまどんな感情をもっているのかさえもはっきりしないことがある。

 意志はある程度はコントロールできるとおもわれているが、じっさいには、意志によって思考や感情がコントロールされているのである。意思はコントロールする主体であって、コントロールされるものではない。意志は、言葉によって表現するのは無論のこと、その存在を自覚することさえ困難である。

言葉によって表現できるのは、意志によってもたらされた結果だけであり、意志そのものについて言葉で語ることはできない。この意味で意志は、これらのもののなかで、もっとも高い霊的ヒエラルキーに位置することが理解されるのである。

以上のことから、霊的なレベルが高くなればなるほど、それを自覚するのは困難になるということがわかるのである。それはつまり、人間の「本質」に近いものほど、それを自覚するのは困難になるということでもある。

人間の「本質」にもっとも近いものといえば実相である。以上のような理屈を実相にあてはめてみると、実相を自覚するということがいかに困難な道であるかがあきらかとなるであろう。

実相の自覚の前には、以上で述べてきたような構造的な問題がよこたわっている。霊的に上位のものほどその自覚が困難になるという構造的な要因が、おいらたちの覚醒をさまたげているのである。

では、なにゆえにこうした構造的な問題が生じるのかというと、これを説明するのは相当にむつかしいことである。これを説明するためには、こうした自覚が、どのような仕組みでもたらされるかをあきらかにしなくてはならないからである。

これはおいらの能力をはるかに超えている。だから説明できない。でも、ここまで書いておきながら、説明できないでは、読者のみなさまの理解はとても得られそうにない。だからおいらは、これから苦しまぎれの説明をする。いちおう、苦しまぎれの説明であると理解したうえで、面白半分に読んでいただければありがたいとおもうのである。

そももそ、物質や知性、感情とは何かといえば、それは、人間の「本質」が、脳を鏡にして、そこに自分自身の姿や体験を映しだしたものなのである。この「脳を鏡にして」というのが、今回の説明のウリである。こういうことにでもしておかないと、この件は説明できない。

脳は物質に近い霊的な素材によってつくられた鏡である。したがって、その性能は万全ではない。自分により近いものほどその姿を鮮明に映しだすことができるのであるが、遠いものは不鮮明にしか映しだすことができないのである。

脳という鏡には、物質はよく映る。知性もまあまあよく映る。感情は、いくらか不鮮明ながら、それなりに映る。意志はあまりうまく映すことができない。そして実相はまったく映らない。こんなわけで、以上で述べたような構造的な問題が生ずるということになるのである。納得はしていただけなくても楽しんではいただけたとおもう。

こんなわけであるから、脳が鏡であろうがなかろうが、構造的な問題がある以上、実相は自覚できないのはたしかである。もしも実相を自覚しようというのであれば、これまでの認識の仕方とはちがう方法を学ぶ必要があるということだ。

でも、じつをいうとおいらは、実相を自覚しようなんて大それたことは考えちゃいない。いちおう、脳が鏡であるということを前提に話せば、おいらの脳にもっとも具体的で鮮明な像を映しだすことができる物質世界について、もっとよく知りたいとおもっているだけなのである。神がわざわざ、なんのために脳という鏡をつくってまで、実相世界にくらべるとはるかにショボイはずの物質世界を映しだそうとしているのか。おいらは、どうしてもその理由を知りたい。
 

心と現象のコヒーレントな関係

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月27日(月)11時11分17秒
編集済
   「現象は心の影である」を、単純に「三界は唯心の所現」と解釈するならば、世界のすべては心が創りだした幻想とみなすよりほかはなくなるだろう。そうした解釈で、現象世界が存在する意味を、はたして理解することができるのであろうか。

 三界が現象であるなら、心もまた現象である。三界と心のあいだに、本質的な区別はないはずだ。三界と心は一体である。ひとつのものが異なるあらわれ方をしているだけであるはずだ。

 この意味で解釈するなら、「現象は心の影」は事実であるが、「心は現象の影」もまた事実ということになるのである。

 心は現象に自己を投影し、反映させている。また逆に、現象も、人の心に自己を投影し、みずからを反映させようとしているのだ。

心と現象はコヒーレントの関係にある。二つのシステムがコヒーレントの関係にあるとは、一つのシステムでおこることは、かならずもう片方のシステムでもおこるということだ。

 心というシステムのなかでおこることは、かならず現象というシステムでもおこる。逆に、現象でおこることは、心のなかでもおこるのである。

 心と現象は、たがいに影響しあっている。素粒子は、ふだんは実体を持たない波動であるが、人が観察すれば、かならず変化して粒子という実体となってあらわれてくる。心はまちがいなく、現象に影響をあたえている。

 逆に、現象に何かがおこれば、心はそれに影響されて、喜怒哀楽いずれかの感情を持つにいたるであろう。

 心と現象がかかわりあえば、かならず、たがいがたがいに自己を反映して影響を及ぼしあうことになる。それは「三界は唯心の所現」が説くような一方的な関係ではないはずだ。

心と現象は、「現象は心の影」であるとともに「心は現象の影」というコヒーレントな関係にある。大事なのは、そうしたことへの自覚を高めることで、自分のなかの何が現象世界に反映されているのかを見極めることである。

 心も現象もともに、真実の自分を映しだすための鏡である。その鏡に映したざれた像を見極めることで、人は、自分がなにものであるかを知ることができるのである。
 

天使の微笑み

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月26日(日)15時52分22秒
編集済
   おいらはぜんぜん知らなかったんだけど、ずいぶん前に、キムタクと工藤静香の次女がダウン症児だという噂が、ネットなどで飛び交うという出来事があったようだ。ことの真相はわからないが、どうやら、根も葉もない「都市伝説」のひとつであったらしい。いくら有名人の子弟であるといっても、幼いときから、こうした興味本位の噂の標的にされるというのは、たまったものではないだろう。

 ダウン症は誤解された部分がかなりあるようだ。ダウン症児は、西洋人であっても東洋人的な風貌をしていることから、モンゴル児と呼ばれていた時期もあった。ダウン症にかんしておいらが知るかぎりでは、それは病気というわけでもなく、たとえ身体的あるいは情緒的な問題が生じる場合があるにしても、人類のひとつのタイプと考えたほうがよいような気がするのである。

 シュタイナーは、そうしたダウン症児を天使と呼んだ。自我という意識がなく、善悪、男女、自他といった二項対立的な観念を持つこともなく、誰にたいしても微笑みをたやさず、しかも人種的な差異すら持たない彼らを、シュタイナーは人類の理想像とみなして天使と呼んだのである。

 もちろん、ダウン症といっても、そこにはさまざまな違いがあるはずだから、ひとくくりに天使といってしまうわけにはいかないのはわかっている。しかし少なくとも、あるタイプのダウン症児が、シュタイナーには天使として映ったのは事実であるから、こうした観点から、ダウン症児と天使の関係について、これから書いてみたいとおもうのである。

 話はかわるが、生物というのは二元論的な世界にしか住むことができない、とおいらは考えている。二元論的世界とは「AであるかAでないか」といった仕方でしか理解できない世界のことである。野生の生物は、「敵か味方か」、「食うか食われるか」、「逃げるか戦うか」、「オスかメスか」といった二元論的な方法だけで世界を知覚しているはずである。

 人類は、こうした生物的な本能である二元論にくわえて、言語という二元論的世界をあらたに構築したのである。言語は、その多くが二元論的な図式で成り立っているといってよいだろう。

人類は、言葉を得たことで、認識できる世界を飛躍的に拡大することができた。しかし、世界がどんなに拡大したように見えても、それは、「左右」、「大小」、「有無」、「真偽」、「天地」といった二元論的な枠組みを拡大させただけのことであって、生物的な二元論的知覚から一歩もぬけだせはしなかったのである。

 キリスト教に天使主義(アンジェリズム)という言葉がある。「天使は地上に災いをもたらす」といった考え方からこの言葉はつくられたようだ。地上に降りた天使は、肉体を身にまとい、生きるために悪をおかすことになる。それでも天使は、自分を善だけの存在であると思い込んで、そのように振る舞いつづけようとする。

こうしたことから、天使主義は、天使を気取って自分の悪をけっして認めようとしない人間はまわりの人々を困惑させる、という意味でつかわれるようになった。

 この世にはかならず善悪がある。にもかかわらず、もしも善だけを認めて、自分の悪を認めようとしない偽善者が身近にいたらどうだろう。彼は悪をおかさないわけではない。生きるためには誰だって悪をおかす。それでも彼は、自分の悪の面を全面的に否定して、人前で、天使としてのみ振る舞いつづけようとするのである。こうした姿を見せつけられる周囲の面々は、彼の行為を次第に嫌悪するようになるだろう。

 天使主義がきらわれるのは、人間が、「善か悪か」という二元論的な世界からぬけだすことができないからである。人間には「善」と「悪」しかない。「善でもあり悪でもある」や「善でもなければ悪でもない」と考えることはできる。しかしこれらの言い回しが、「善悪」にとらわれた二元論をたんに延長したものであるのはあきらかだ。

人間は、どんなにシャカリキになったとしても、「善悪」の二項対立を超えることはできない。「悪」を否定しようとすれば「善」として振る舞うしかないのである。こうして、二元論的対立のなかで、意識的に「善のみ」であるように振る舞うことを、天使主義というのである。

 ダウン症児が天使であるのは、彼らが自分の善だけを認めて悪を否定しようとするからではない。彼らには、そもそも「善悪」という二項対立がないのであるから、自分のなかの悪を認めておきながら、それを否定するために善人ぶる必要もないのである。

 彼らは「善悪」の二元論を超越している。あるがままに生きていながら、ふつうの人々が「善」と呼ぶ世界を生きることができるのだ。他の人類が、経験することはおろか、想像することさえもできないようなよろこびに満ちた世界を、ダウン症児たちは生きている。シュタイナーはそのように考えたからこそ、彼らを、人類究極の理想像とみなして天使と呼んだはずである。

 シュタイナーが見たダウン症児たちは、「善」だけの存在として、周囲の人々に微笑みかけていた。こうした彼らを、周囲の人々は、天使主義を嫌ったのとおなじような理屈で嫌悪することなどできはしないのだ。やがて人々は、自分たちがけっしてたどりつくことのできない光り輝く世界に彼らが生きていることを知るだろう。そしていつの日か、彼らとおなじ世界を生きることこそが人類究極の目的であることを理解するときがくるだろう。
 

yutaちゃんへ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月26日(日)09時20分44秒
   yutaちゃん、ホンマにお久しゅうございまするぅ〜〜〜。

 おいらも、もともとそんなに気が小さいほうではなかったんだけど、いろいろときびしい経験をしているうちに余計なことを考えるようになって、考えれば考えるほどさらに小さくなって、こんなにまで縮こまってしまったんだよね。

 ほんとは、あぶなくて、いかがわしくて、ペテン師で、ほら吹き男爵ぽくて、破壊神のごとくありたいなどと、大そうなことを夢想してるんだけど、現実は、ショボくてつまらん人間のままなのであります。せめて掲示板だけでも空想の自分でありたいとおもってるようなわけでありまする。

 こんなわけだから

>ここまで開き直っているアナタは、気の小さい方ではありません!
本当に気の小さい方は、キッパリと開き直ることができないものです。
そして、自分を明確に表現できないのです。
でも、アナタは全く違います!
思考されている内容が様々で多岐に渡っていたり、嗜好や好奇心が僕より多いだけです

 おいらのことを、こんなふうにおもってもらえるのは、「やったぜ!ベイビー」みたいなうれしさなのであります。yutaちゃん、いつもありがとうね。
 

初心者さまへ

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 7月25日(土)22時28分47秒
  お久しゅうでざいまするぅ♪

>>気が小さいので、いまのような感じでのらくらりとやってます。

ここまで開き直っているアナタは、気の小さい方ではありません!
本当に気の小さい方は、キッパリと開き直ることができないものです。
そして、自分を明確に表現できないのです。
でも、アナタは全く違います!
思考されている内容が様々で多岐に渡っていたり、嗜好や好奇心が僕より多いだけです☆

>>そんなー。恥ずかしいですぅ。二十世紀にあった、カビのはえた昔話ですぅ。

この「ぅ」の使い方が、僕は好きです☆
勝手ながら、僕もあちこちで真似て、使わせていただいておりまするぅ♪

感謝拝^^
 

あゆみさんへ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月25日(土)19時02分11秒
   あゆみさんの名前を見て、おどろき桃の木山椒の木でした。こんなところでお会いできるなんて、おもってもみませんでした。うれしいです。

>正直、最初は危うそうな方だなと気になっていましたが

 ガビ〜ン。あゆみさんこんなふうにおもわれていたなんて。ちょっとショック。でも、「危うそうな」人間とおもわれるのもわるくないような。太宰治とか芥川龍之介とかまではいかないにしても、それっぽいのって、なんかあこがれるよね。

>自己開示されるにつれ健康さが見えてきて、最近は面白い人だなと興味を持ってコメントを読ませてただいています。ナイーブな感受性や、頭の回転の良さ、変幻自在な態度、つかみどころのなさ、ユーモアとサービス精神。ストーリーテラー、エンターテイナーの才能を感じます。

 おいら、ほめられるとすぐに調子にのりますよ。調子にのって羽目をはずしたところで馬脚をあらわしてしまうんですけどね。ほんとうは「あぶなくていかがわしいトリックスター」になろうとしてるだけなんだけど、気が小さいので、いまのような感じでのらくらりとやってます。

>電話口で歌を歌いあうなんて、ちょっとしたラブストーリーですね。カッコいいね。

 そんなー。恥ずかしいですぅ。二十世紀にあった、カビのはえた昔話ですぅ。

>「楽園の女神 この曲を聴くと、なぜか思い出す人がいる。」 展開が気になるな〜

 「なぜか思い出す人がいる」って誰のことなんでしょうかねー。掲示板にも書きましたけど、CDを聴いていると「人知れず過ごした晴れやかな半世紀」と聞こえるんですよね。誰か思い当たる人、いませんか?
 

初心者さんへ 

 投稿者:あゆみ  投稿日:2009年 7月25日(土)17時30分31秒
編集済
  はじめまして。あゆみと申します。
生長の家の信徒ではありませんが、浮雲さんのブログにコメントを書かせていただいております。初心者さんへのコメントを書く場がなくなってしまったと嘆いたところ、掲示板に書いたらと勧めていただき、いろどりひかる☆さまのご好意に甘え、書かせていただきます。
え?私なんかが書いていいの?となんだかドキドキ。

初心者さんへ  正直、最初は危うそうな方だなと気になっていましたが、自己開示されるにつれ健康さが見えてきて、最近は面白い人だなと興味を持ってコメントを読ませてただいています。ナイーブな感受性や、頭の回転の良さ、変幻自在な態度、つかみどころのなさ、ユーモアとサービス精神。ストーリーテラー、エンターテイナーの才能を感じます。

「そのころのおいらは物怖じせぬタチだった」 いいね〜
「その女子はいってくれた。うまいねー。ものすごくうまいねと。このときおいらは、ついにひとつの限界を突破したのだった。」 電話口で歌を歌いあうなんて、ちょっとしたラブストーリーですね。カッコいいね。限界突破とはこれもいいね〜。
「楽園の女神 この曲を聴くと、なぜか思い出す人がいる。」 展開が気になるな〜

一言感想を述べさせていただきました。
 

転生の秘密

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月25日(土)16時11分17秒
編集済
  すでにご存知だとおもうが、たとえそれが自分の持ち物であったとしても、あの世に持ってゆけないものがある。肉体や財産はもちろんのこと、社会的な地位や名声が、そうしたことどもにふくまれるのはあきらかである。

では、その人が生涯をかけてたくわえた知識や、深く考えることによって手に入れた思考の成果はどうなのだろう。これらのものは、はたして持ってゆくことができるのだろうか、できないのだろうか。

これを考えるにあたって、まず最初に留意すべきは、人間は、物質体である肉体にくわえて、霊的な存在であるエーテル体とアストラル体の三つの要素によってできているということである。

こうしたもののうち、あの世に持ってゆけるのはアストラル体による経験だけであるといわれている。肉体的あるいはエーテル体的な経験は、それが何であれ、あの世へと持ち込むことばできない仕組みになっているようだ。

これを前提に考えるならば、知識を得ることや思考することが、これら三つの経験のどれに属するのかということが、あの世に持ってゆけるかどうかの決め手となることがわかるのである。

結論からいえば、知識や思考はエーテル体に属する経験である。知識や思考をつかさどる知性というのは、霊的にみればはるかにレベルが低く、霊的ヒエラルキーの最下層にあるといってよいものである。したがって、これよりもいくらかレベルの高いところにあるアストラル体が関心をしめすことはないだろうというわけである。

つまり、たいへんに残念なことではあるが、いかに膨大な知識をたくわえようとも、あるいは、精緻をきわめた思考をいかに長年月にわたって展開しようとも、それらの経験はアストラル体によって無視されるので、あの世へと持ってゆくことはかなわぬことになるのである。

たとえ弁舌さわやかに人類愛を説いたとしても、あるいは、舌鋒するどく高遠な真理を述べ立てることができたとしても、それだけでは、霊的にはまったく価値がないということになるのである。

それなら、知識をたくわえることや、ものごとについて深く思考することは、すべてが無駄であるのかというと、そういうわけでもなさそうである。というのも、ここにひとつの重要な秘密があるのである。その秘密とは、エーテル体はあの世に持ってゆくことができないにしても、来世に転生するときに、エーテル体は、な、な、なんと、物質界において復活するというのである。

驚くなかれ!この世からもあの世からも消え去ったはずのエーテル体が、転生によって復活するというのだ。ならば、知識や思考の内容も復活するのかというと、どうもそれはないようだ。たしかに、知識や思考体験はエーテル体に刻印されることもあるわけであるが、それはあくまでもエーテル体として刻印されるのであって、それらがそのままの状態でエーテル体にコピーされるということではないのである。

では、知識や思考内容がエーテル体として刻印されるとは、どういうことなのだろう。それをあきらかにするには、エーテル体とは何かという問題を、まずは解決する必要がある。

肉体はたんなる物質ではない。それは、鉱物のような不活性な物質とはかなりちがったものである。肉体が鉱物と異なるのは、それが、エーテル体とむすびつくことによって生命をあたえられ活性化しているからである。

エーテル体は、肉体という不活性物質を活性化させるための霊的生命体ということがいえるのである。エーテル体が肉体から離れるようなことになれば、肉体はただの物質となってしまうだろう。

このようなことから考えれば、エーテル体に刻印された知識や思考の体験は、転生によって、肉体として復活するということがあきらかとなるだろう。自分たちがいま持っている知識や思考は、来世の肉体的な特徴や機能として、この世に復活するかもしれないのである。これが、知識や思考がエーテル体に刻印されるということの意味である。

このことは、われらの人生に大きなインパクトをあたえることになる。それがたとえどんなに高邁な理想や高遠な思想であったとしても、たんに心のなかで思い浮かべているだけで行動がなければ、いかなる未来においても、何も復活させることはできないということになるのだ。

エーテル体は、現世においては、物質的な世界に属している。心におもったことを、みずからの行動によって物質化しないかぎり、そうしたことどもをエーテル体に刻印することはできない仕組みになっているのだ。そして、刻印できなかった知識や思考は二度と復活することはないのである。

「愛がすべてである」といいつつも、その理想や思考を物質界において表現しなければ、そのアイデアは、いずれこの世から永遠に消え去ることになるだろう。そうなれば、せっかく思い描いた理想や思考は、いまの人生においても、そして未来の人生においても、何の役にも立たないということになってしまうのである。

「愛がすべてである」という考えを、肉体をもちいて、たとえ不十分であっても表現し得たときに、そうした経験は、転生によって肉体に復活することになるのである。もしもそれらの理想を十全に表現し得たなら、来世では、たぐいまれな美しき肉体をまとって生まれ出ずることになるかもしれない。
 

変声期

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月24日(金)12時32分4秒
編集済
   ひと言ことわっておくならば、おいらは度外れたオンチだった。それがどれほどひどかったかを物語る、とっておきのエピソードがある。

 それは、小学五年生のことだった。校内の合唱コンクールがあって、クラスごとに練習していた。全員参加であるので、オンチのおいらも参加させられた。そのころのおいらは物怖じせぬタチだったので、オンチをものともせず大声出して歌っていた。

 すると、担任の女教師が、おいらにむかってこういった。「君ねー、声、出さんでくれる。口だけうごかしてたらいいから」。

 「てめぇー、それでも教育者かぁ。そこまでして勝ちたいか」とは、小学生のおいらにいえるはずもなく、けっきょく口だけパクパクうごかす羽目になった。

 このときから、おいらの消極的な人生がはじまったような気がする。自分を表現することに、いささかのためらいを感じるようになってしまったような気がするのである。

 それでも、捨てる神あれば拾う神ありであった。六年生のときに、おいらは、ほかの子たちよりもひとあし早く変声期をむかえた。自分では気づかなかったが、音楽の時間に、担当のやさしそうな女の先生にほめられて、はじめてそのことに気がついた。

 音楽の授業で、ひとりずつ前に出て歌わされた。おいらが歌いおわったあと、音楽担当の女の先生が、クラスのみんなにむかっていった。「この子は声変わりしようとしてるんですよ。歌もうまいですね」と。

 歌がうまいなんていわれたのは、生まれてはじめてだ。しかも、いった相手は音楽の先生だ。声が変わったら、オンチがなおるのか?おいらは期待した。でもそれは一時的なものだった。変声期がおわると、またもとのオンチにもどっていた。

 そのまま大人になって、人前では歌わないようにした。でもやっぱり歌はうまくなりたい。そんなおもいが、つのるばかりであった。だから、ひとりでこっそり歌って練習した。あるとき、いつもよりかなりうまく歌えてる自分がいることに気づいた。「けっこうイケてるんちゃう」とおもった。

 なぜなのかを考えてみた。そしてわかった。裏声だ。裏声で歌えばうまく歌えるのだ。モロ裏声ではウイーン少年合唱団だ。心持ち裏声気味に歌う。そうすれば、それなりにうまく歌えることがわかったのである。

 それからしばらくして、とある新聞で、オンチの人を相手に歌唱指導をしている人が、「裏声で歌えばどんな人でもうまく歌えるようになる」といっていた。やはりそうだったのだ。おいらは、小学五年生のときにうしなった自信を、やっととり戻すことができるとおもった。

 じつをいうとおいらは、21世紀になってこのかた、女子と話をしたことがない。最後に女子と話したのは、20世紀のことだった。20世紀のおわりごろに、ある女子と電話で話をした。その女子が「いまから歌を歌う」といって電話のむこうで歌いはじめた。何曲か歌いおわると、今度は、おいらにも歌えという。

 いよいよ自慢の裏声を披露するときがきたのだ。この瞬間がくるのを、ずっとずっと待っていたのだ。おいらは、即されるままに一曲歌たった。もちろん二番まで歌った。その女子はいってくれた。「うまいねー。ものすごくうまいね」と。このときおいらは、ついにひとつの限界を突破したのだった。

 声が変わるといえば、歌手の中森明菜は、ずいぶんおそくに変声期をむかえたようだ。最近の明菜ちゃんの声は、以前とはかなりちがっているようにおもう。まるでノドが半分つぶれたような声である。

 でもその声がたまらなくいい。どうすればこんな声が出せるのだ。そんな声で歌ってる。それに、ものすごくキレイな声も出す。今井美樹のような声や工藤静香のような声、ほかにもいろいろキレイな声で歌う。変幻自在に、曲にあわせていろいろな声を使いわけている。

 こんな歌手はほかにはいない。ほとんどの歌手は、いつもおなじ声で歌ってる。明菜ちゃんのような芸当ができる歌手なんてぜったいにいない。だからおいらは、明菜ちゃんの歌声に、たまらない魅力を感じることになる。

 好きな曲はいくつもある。「東京ローズ」、「赤い花」、「楽園の女神」など。第二次世界大戦の末期に、かく乱のために、米軍の艦船にむけたラジオ放送で英語でしゃべっていた日本人女性を、米軍の兵士たちは「東京ローズ」と呼んでいた。

 その「東京ローズ」と関係があるかどうかはわからないが、アレンジがノスタルジックでしかも日本人離れしている。どうやらアレンジは、アメリカ人の音楽家が担当したようだ。終戦直後のけだるい雰囲気がよく出た名曲中の名曲であるとおもう。作詞は、中森明菜自身が手がけている。

 「赤い花」は、韓国ドラマの主題歌に日本語の歌詞をつけたものだ。おなじメロディーで歌詞が異なる「初めて出逢った日のように」とセットで歌われている。この2つの曲についても、中森明菜は、まったく異なる声や歌唱法で歌っているので、メロディーはおなじでも、聴くものはまったくちがった印象をうけることになる。

 「楽園の女神」は、おいらが一押しするかくれた名曲である。レコード大賞受賞曲の「ミアモーレ」以上である。その歌詞に「人知れず過ごしたハレアカラ 半世紀」というのがある。「ハレアカラ」は、CDで聴いていると「晴れやかな」と聴こえる。どうやらそれは、ハワイの国立公園の名前のようだ。この曲を聴くと、なぜか思い出す人がいる。
 

世紀の天体ショー

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月23日(木)17時15分47秒
編集済
   「世紀の天体ショー」が、予定通りにはじまり、予定通りにおわった。ゆいいつ予定通りにいかなかったのが天気であったようだ。じつをいうとおいらは、この「天体ショー」という物言いには多少なりの違和感をおぼえずにはおれないのであるが、しかし、また逆に、こうした物言いによっていくぶんかの救いを得ているのも事実であるような気もするのである。

 もしもこれを「ショー」ではなく、出来事であるとか事件であるとかの言葉に置きかえてみれば、そのあたりの事情ははっきりしてくる。もしもある出来事なり事件なりが、何年後の何月何日何時何分におこるといわれて、それがじっさいに現実のものになれば、ふつうの感覚の持ち主であれば、その不気味さに、いささかなりとも吐き気をもよおすようなことになるはずである。

 予測された日時に、予測されたとおりにおこる天体現象が不気味さをはらまずにいられるのは、そうした現象を「ショー」という言葉にいいくるんで、じっさいの出来事の不気味さをおおいかくしているからであるにちがいないのである。

それが、歌手や踊り子といったエンタテイナーたちによって演じられる本物の「ショー」であってみれば、いつどこで誰によって演じられるかが前もって発表されていて、じっさいにそのようなことになったとしても、それが原因で吐き気をもよおすものなどいるはずがない。

これとおなじ理屈で、天体現象を「ショー」といいかえさえすれば、たとえそれが、太陽が消えるという歴史的大事件が定刻通りにはじまるという奇怪な出来事であったとしても、そのことには誰ひとりとして不安をおぼえないですむということになってくるのである。

 天体現象は、そのすべてが物理的な法則で決定している。もしも観測の精度が、いまよりも桁違いなほどに緻密になって、観測の範囲を宇宙大にひろげることができれば、宇宙の未来は、ほとんすべてわかってしまうことになるだろう。それを「ショー」と呼ぶことはないにしても、地球と他の天体が衝突して、何年後の何月何日に人類は滅びるということもわかるかもしれないのだ。

 遠い将来、人類は超科学を得て、地球上のすべての原子を、天体現象のごとく観測して、その未来を確実に予測できるようになるかもしれない。もしもこんなことにでもなれば、いつどこでどんな事件がおこるかも、それがおこるはるか以前に物理的に決定することになる。そうなれば、これからおこるであろう歴史的大事件を目撃しようと、所定の場所に大勢の見物客がおしかけることになるだろう。事件はもはや事件ではない。それは「ショー」と呼ばれることになるだろう。
 

一来訪者さまへ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月23日(木)10時53分25秒
   一来訪者さま、ありがとうございます。今回もまた素晴らしき「こじつけ=発想の転換」をしていただき、見る風景が変わってまいりました。

 いくつもあるはずの「ものの見方」のうちの、ただひとつの「見方」に拘泥しているときの一転語によって、それまでとはちがった「見方」を得るというのは、新鮮なよろこびであり、驚きに満ちた感動でもありますね。

 一来訪者さんのふだんの心持が如実にあらわれた、生長の家の人らしい「発想の転換」をしていただきました。あかるい人生を生きている人も、またそうではない人も、どちらも「光あふれる人生を生きている」ということになるわけですね。このことを、一来訪者さんの前向きでポジティブな「見方」によって確認できました。

 一来訪者さんによる「発想の転換」は、おいらだけでなく、ほかのすべての生長の家のみなさまが納得できるものです。「見方」が転換された一瞬に真理は入ってくるものであります。今回もまた、素晴らしい「観の転換」をさせていただきましたことを感謝いたします。
 

光あふれる世界を受けて

 投稿者:一来訪者  投稿日:2009年 7月23日(木)08時16分21秒
編集済
  初心者さん、いつも、多種多様な知識ある文章をありがとうございます。
このタイミングにまたまた、私がこじつけをさせて頂きますと。

>夜空には光が満ちあふれている。
     生命ある物には、いのちが満ちあふれています。
>「光は見ることができる」という勘違いだ。
     現象はアルという勘違いなのです。
>虫は光を反射させる。だから見ることができる。
     光が反射しているので、物質として見ているのです。
>おれたちは、いつも何を見てるんだ。これは、光じゃないのか。
     光の放った、現象を見ているのです。
>光が消滅して大量のエネルギーを発生させている世界ということになるはずだ。
     その光(いのち)を放ち、輝やいている状態を生きていると、言える
     はずです。
>いったいどちらがほんとうの「光あふれる世界」なんだろう。
     どちらにも光は充満している世界と言えるでしょう、
     その、光を神に例えるならば、唯神実相の世界とも言うからです。
 

都市伝説

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月22日(水)11時52分24秒
   一台のタクシーが、うら若き女性客をのせて目的地に着いた。料金をうけとろうと運転手がふり返ると、そこにいるはずの女性客の姿はすでになかった。こういったたぐいの話がもてはやされるのが「都市伝説」である。アメリカにも、似たような話で「消えるヒッチハイカー」という代表的なバージョンがあるらしい。

 「都市伝説」を直接的に耳にする機会はきわめて少ない。それでもその昔、某製紙メーカーのティッシュペーパーのテレビCMを見たものはのろわれる、と女子たちがさわいでいたのを、間近で聞いた記憶がある。

 そのほとんどが根も葉もない噂話だとしても、こうした話が、まことしやかに語られ信じられてしまうのが「都市伝説」の「都市伝説」たる所以なのである。

 もっとも、噂話がつねに都市において語られるとはかぎらない。その噂が、片田舎の通学路で、都市にいちども住んだことのない中学生たちによって語られはじめたとしても、なぜか、それもまた「都市伝説」ということになるのである。

 それがどこで語られようとも、現代の噂話は「都市伝説」である。しかし、そこで語られているのは、「都市伝説」というイカしたネーミングとは裏腹に、サンマの味噌煮に尾ひれがついたような、どうにもパッとしない「世間話」のたぐいのごとき噂ばかりであるのが気に入らない。

 語られる場所にかかわりなく、それが「都市伝説」と呼ばれるのは、その噂話が、都市生活者にあまりにウケがよすぎるからではないだろうか。たとえパッとしていなくとも、都市生活者たちはこぞって話を聞きたがる。そんなたわいのない「世間話」に身をやつすことでもしてないと、自分自身が、異物として、都市から排泄されかねないと思い込んでいるかのように、自分の外にあるはずの異物にまつわる話を聞きたがる。

 都市とは何かということをおいら的にいえば、それは空間を定義することだということになる。無意味で漠然としていて何がひそんでいるかわからない空間に、24時間たえまなく光をあびせつづけ、いくつものタテやヨコの線で理路整然と区分けして、何がどこにあるかをきちんと整理して、それぞれの役割や機能を明確にする。こうすることで、無意味であったはずの空間が定義され、意味のある生活空間として利用できるようになったもの、それがおいらのおもいえがく都市像だ。

 最新のテクノロジーを駆使して、せっかく意味をあたえた都市空間に、無意味な噂話を持ち込もうとするところに「都市伝説」の絶対的な矛盾がある。どうやら人間は、意味でいっぱいになった空間もあまり好みではないようだ。きちんと定義されたはずの空間に、定義できない得体のしれぬものがうごめいている。そんなことを、都市に住むものたちの誰もが思い込みたがっているようにおもえる。

 その定義されていないものが、自分自身であることを、都市住民たちはしっている。都市にとって、自分たちこそが定義無用の異物なのだということを、先刻承知なのである。都市住民たちは、定義されていないものが自分とはべつのところにあると想像することで、自分のなかの得体の知れなさを追い出したような気でいるのかもしれない。
 

光あふれる世界

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月21日(火)17時49分6秒
編集済
   夜空は暗い。当たり前だ。

でも、夜空には光が満ちあふれている。そんなバカな。でもホント。だから月は光ることができる。夜空に光がなければ、月はどうやって光るんだ。

光に満ちあふれているはずの夜空がなんで暗いんだ?こんなふうにおもうとしたら、その人は、何か勘違いしている。どんな勘違いかといえば、「光は見ることができる」という勘違いだ。

光は、けっして見ることなんてできない。光の速さは秒速30万キロなんだぜ。こんな速いもの、どうやって見るんだ。プロ野球のピッチャーが投げる時速150キロだって見るのはたいへんだ。なのに、どうやって秒速30万キロを見ることができるんだ。

光は30万キロよりおそく動くことはない。どうしたってこうしたって30万キロだ。超高速ロケットにのって秒速29万9千9百キロで飛んだとしても、光がびた一文おそく見えるわけじゃない。

こんなに速く動くものを見るなんて不可能だ。だから光はぜったいに見ることはできない。目の前を、光の束がびゅんびゅん通りすぎていったとしても、何も見ることなんてできない。

それならもし、光の動く速さがいまよりウンとおそければ見ることができるのだろうか。たとえウンとおそくても、やっぱり見ることなんてできないだろう。光が、目の前を秒速10センチの速さで動いていたとしても、いったいそれをどうやって見るんだ。

虫が飛んでいるのなら見ることができる。虫は光を反射させる。だから見ることができる。でも、光が光を反射させるのか?光が光にぶつかって反射するなんて話、聞いたことないぞ。たとえ光がどんなにおそく動いていたとしても、それを見る方法がないのだから、見るなんてことは不可能にきまっているのだ。

それなら、おれたちは、いつも何を見てるんだ。これは、光じゃないのか。

たぶん、それは光じゃないだろう。なんといっても秒速30万キロなんだから、見るなんて不可能だ。だったら何なんだ。

それは、光が消滅したってことなんだよ。光が消滅してエネルギーを発生させた。そのエネルギーをおれたちは、明るさや色として感じてるだけなんだよ、きっと。だからもうそこには光はないってことなんだよ。

だとすると、「光あふれる世界」って何なのだろう。もしそれがあかるい世界だとしたら、それは光が消滅している世界だ。光が消滅して大量のエネルギーを発生させている世界ということになるはずだ。

光が消滅してあかるく感じられる世界と、夜空のように、光が消滅せずに暗く感じられる世界と、いったいどちらがほんとうの「光あふれる世界」なんだろう。
 

「日時計主義」は近代を超えられるか

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月21日(火)16時04分34秒
   目の前にぶら下がるニンジンに食らいつこうと走りつづける馬。現代人をひと言で形容するときに、こうしたニュアンスで語られることはすくなくないはずだ。

 現代人とて、好きで馬になったわけではない。気がつけばそんな按配になっていたというのが、多くの人がいだく共通の思いなのではないだろうか。いやむしろ、自分が馬であることにさえ気づいていない人のほうが多いのかもしれない。

 近代という時代は、人をあおりにあおった。そのためかどうかは知らないが、現代を生きる人々は、いつしか「近代的自我」という幻想を成立させてしまった。あおられつづけた「自我」は、どこへ向かうとも知れず突っ走った。「自我」は肥大化した。欲望も肥大化した。それでも人は、馬のように走りつづけた。

 現代人の「自我」は自然の産物ではない。それは、あきらかに、人工的につくられたものだ。近代以前に、「自我」はこの世になかった。「自我」の代わりとしてあったものが、共同体としての村落や武士道であったのだ。

こうして新しく成立した「自我」の概念に、人は苦しめられることになる。「自分ってなんだろー」と考えなくてはならなくなる。そもそも自然界に存在しないものをあたえられたわけであるから、悩み苦しむのも当然のことなのである。

しかも、そうした「自我」は、メディアによってあやつられている。メディアによって、不自然な欲望をあおられ、それが自分のほんとうの欲望だと思い込まされている。こうして、現代人は、自然にあるがままのリアリティーである一次的な現実を生きることができなくなってしまったのである。

ここで、「近代的自我」の幻想やメディアによってつくられた現実を、二次的な現実だということにしておこう。そうすると、現代人はすでに、メディアから間断なくおくられてくる情報で虚構された二次的な現実を生きている、といっても過言ではないということになる。

 そうした虚構された現実からぬけ出す手立てを、現代人はもってはいない。なぜならすでに、現代人そのものが、「近代的自我」という名の二次現実そのものだからである。二次現実である現代人は、メディアから提供される二次的なリアリティーを本物だと思い込むしかない。もしそれを疑えば、自己がよって立つべき現実の基盤を見失うことになってしまうのである。

 伝統的な宗教が、現代において力を持ち得ないのは、今という時代が、二次的なリアリティーのなかにあるからである。一次的なリアリティーのなかで産声をあげて発展してきた伝統的宗教が、二次的なリアリティーに対応できないのは当然の帰結といってよいことなのである。

 たとえば、仏教にとって問題なのは、一次的リアリティーの虚構性なのである。「一次的リアリティーを疑え」と、仏教はいいつづけてきた。しかしいまや時代は、一次的リアリティーを超えて、二次的リアリティーを創作してしまったのだ。これは、仏教が対応できるような問題ではないのである。

 山にこもって修行をするという伝統的な行法がある。こうした方法は、近代社会ではほとんど通用しないといっていいだろう。山にこもるという修行に効果があるのは、修行者自身が一次的なリアリティーを生きているという前提があればこそである。

 現代は、二次的なリアリティーの時代である。山にこもってみたところで、「近代的自我」であることから逃れることはできない。山にあるのは、一次的リアリティーだけである。一次的リアリティーを疑うのであれば、それで十分である。しかし、二次的なリアリティーを疑おうというのであれば、それは二次的なリアリティーを相手にしたときでなければ、無理というものである。

 現代には、現代にあった修行方法がある。そうした修行を実践しないかぎり、人は、いまある問題を克服することはできないのである。それなら、現代人向きの修行とはどんなものなのであろうか。いうまでもなくそれは「日時計主義」の生き方ということになるのである。

 二次現実はすべてが「表象」によってできている。「近代的自我」を前提として、メディアによってあたえられた「表象」を、そのまま受動的に受け入れて創作されたものが二次現実である。「表象」を超えるものは「判断」しかない。「判断」するとは、受身であることをやめて、すべてのものごとに能動的にかかわるということだ。こうすることによってしか、二次現実は超越できないということになっている。

 この意味で、「日時計主義」は、現代人にもっとも適した修行方法といえるのである。もっといえば、これしかないといってよいものなのかもしれない。受身の意識習慣をやめて、世界と能動的にかかわろうという意識を持たぬかぎり、自分とは、いつまでたっても、虚構された「近代的自我」でありつづけるよりほかはないのだ。

 「日時計主義」は、「脱近代」の切り札であるのかもしれない。まだ誰も気がついていないとおもうが、おいらにはそんな気がしてきた。「脱近代」の機能は果たせないとみられていた新宗教に、どうやら新しい風がふきはじめたようだ。「反近代」の暖簾をおろしたことで、身軽にはなったが「物語性」をなくしてまった新宗教の、これは新たなる「物語」のはじまりであってほしいとおもう。
 

以上は、新着順21番目から40番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 
/32