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弁解がてらの解説を考える過程で、コミュニケーションということについても考えました。
結論から先に書くと、コミュニケーションにおいて、自分の意見を出したら、それを「批判」として受け取られても仕方ないし、実際、誰かにとっては批判である可能性は常にある。だから、波風を立てたくない時は、自分の考えはしまっておくのがオトナだと思いました。
オトナは、何か意見らしいことを言っても、その場の「総意」をうまく見抜いて、それを「自分の意見」にできる人。「ワタシの意見」というものに拘らない人だと思います。一種の無我ですにゃ。
これは日本人に限らない。例えば、欧米人が日本人から見たら無理やりにでも他人と対立するような意見を搾り出すのは、それが彼らの社会での「総意」であり、「ボクも同じです」と言ったら「みんな」から拒絶されるからである。
よく日本人は集団主義だとか「他人が自分をどう思うか気にしている」といまだに言っている人がいるけど、他人を気にする・他人の視線の中にしかアイデンティティーを確立できないのは群れで生きる猿や犬や人間の生物学的なサガであって、民族文化を越えている。文化的な違いは、同調行動を個人主義的な建て前に包んで打ち出すか、そのままもろに同調行動として打ち出す(これは近代人のプライドを傷つける)かの違いだと思います。
さて、コミュニケーション講座などで登場するのが、「Yes, and」の対応。
「ええ、でも、・・・」と否定しないで、とにかく、「はい、そうしましょう」とか答えてから、「そして、○○しましょう」と対応する。
対人関係のスキルとして、接客業のセミナーなどでは必ず登場するようです。
「相手を先ずは受け入れる」「相手の意見を尊重する」といったことが、今の世間では、重んじられる。
その流れの中で、「Yes, and」も、からめ手で相手を思い通りにするスキルとして流布している。
でも、このYes, andの真骨頂は、相手を否定しないことではない。Yesだけだと、要するに、ただのイエスマンです。
要(かなめ)は、and。
相手の考え、立場はそのまま受け入れつつ、自分の意見を述べる。
そこでは必ず、拒絶や誤解のリスクが伴う。
Yes, andの練習をセミナーなどで受けると、基本は「旅行に行きましょう」から始まることが多い。
「旅行に行きましょう」
「はい、旅行に行きましょう。海外に行きましょう」
「はい、海外に行きましょう。イギリスに行きましょう」
「はい、イギリスに行きましょう。それからフランスに行きましょう」
というような具合で進めてゆくのだと指導される。
しかし、本当は、旅行など行きたくない時に、このYes, andを使うべきなのだ。
「旅行に行きましょう」
「はい、旅行に行きましょう。旅行の前に、家でのんびり身体を休めましょう」
Yes, andのコミュニケーションが必要だということは、互いに利害の調整を行わなければならない問題があることを示している。Yes, andは、真正面からの衝突を避ける技法なのだ。
andから行う自分の主張は、ボクシングで言えば、相手の顔面めがけて打ち出すパンチである。それはブロックされるかもしれないし、カウンターを喰らうかもしれない。
その危険を冒したくないのなら、相手のパンチをただありがたく頂戴して降参するしかない。
そうはいかない場合もある。
そうしたくない時もある。
その時に、Yes, andを使うのだ。
ここまで考えて、ボクが思ったのは、コミュニケーションは自分の本当の気持ちを出そうとすると、どうしてもリスクを伴ってくるものだということでした。
そして、このリスクをあえて背負ってまでコミュニケーションしたいと思う相手は、単に知人というより友だちということになるのだろうと思いました。
その友だちがやはりリスクを背負ってコミュニケーションを試みてくれたら、お互いは「知己」となるのだろう。
そういう相手がいる人、そういう相手が多い人はシアワセ者ですね。
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