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これも去年書いたもの
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半七捕物帳を読んでいると「世間」という言葉がよく出てくる。
「かういふことは人騒がせで甚だよろしくない。第一に世間の手前もある。」(『歩兵の髪切り』より)
「世間」とは何だろうか?
世間様に申し訳が立たない。
世間を憚る。
世間に相手にされなくなる。
世間体がよくない。
私たちは個人として生きるにあたって世間を頼りにし、世間を懼れ、世間に受け入れられ、世間とうまくいくように常に心を配っているようだ。
半七捕物帳の世界では、大店も「世間の評判がわるくなると」たちまち傾いてしまう。権勢を揮う者も世間が反発するような言動はとれないわけだ。
してみると、大臣の失言などをとらえて騒いでいる人々は「世間」なのかもしれない。
ああいう人々の実態というのはよくわからないが、身近に新聞記事と同じようなことを言って憤っている声を聞くこともある。そういう人の怒りは断片化された発言に対する単純な感情的反応だと私には思える。どうして自分がそういう反応をするのかを考えることは絶対に無いし、まして切り取られた発言の全体がどういうもので、発言した大臣の意図や思想や世界観に思いを馳せるということはありえない。
その怒りは正義の怒りだ。言い変えると、怒るのが目的である怒りだ。だから、怒りを感じる理由は考えない。そういう怒りがあるところには、ある種のリンチの楽しみが潜んでいて、それが怒りの実体であると思う。
私たちは個人として世間を懼れつつ、無意識に世間の中に溶け込んで個人を規制したり、個人を攻撃したりする楽しみを味わっているようだ。
大東亜戦争の末期に「桜花」というロケット型の特攻機が開発された。ロケットの噴出時間は10秒足らずだったから、桜花は大型の戦闘機に吊るされて目標を発見した後に空中発進する。
この桜花を搭載して出撃する大型戦闘機として「一式陸上攻撃機」が選ばれた。桜花特攻のために改造された一式陸攻の部隊が編成された。しかし、部隊長に任命された野中五郎少佐は桜花を搭載して訓練を繰り返すごとに桜花特攻は無駄だという確信を持つようになったという。
「二トンもある桜花を吊るして飛べば、途中で敵の戦闘機に撃墜される。こんな無駄なことをするより、今までどおり一式陸攻だけを使って夜間雷撃を行なうほうが戦果ははるかに大きい」という意味のことを語っていたそうだ。
しかし、野中少佐は桜花特攻の「神雷部隊」指揮官として、昭和二十年三月二十一日、桜花を吊るした一式陸攻十八機を従えて出撃した。
桜花はアメリカ戦艦を攻撃目標にしたということで、戦後確認された戦果は一隻撃沈。そのほかに数隻にいくらかの損害を与えたようだ。しかし、それ以外に戦果は無い。
この戦果に払った犠牲は桜花のパイロット五十五名。
そして、桜花を搭載して出撃した一式陸攻の乗組員三百六十八名の命。
桜花の初出撃でも、野中少佐以下十八機が全滅。攻撃目標の戦艦まで、まだ九十キロもあるところで米軍戦闘機に桜花もろとも撃ち落された。
陸上攻撃機は、元々は、爆撃機並みの航続距離を持ちながら戦闘機よりも速く飛ぶという新兵器だった。重い人間爆弾を抱えたまま為す術も無く撃墜されるのは悔しかっただろうと思う。まして陸攻に吊るされたまま何もできない特攻隊員の思いたるや、・・・。
一式陸攻の桜花搭載だけでなく、特攻そのものに疑問を持っていた野中少佐は、戦死後二階級特進。大佐となった。
大東亜戦争にはこういうやりきれない思いをする話が数え切れないくらいある。
個人の意見や見解だというだけで、後から見れば「正しい」あるいは「妥当」だったものが、「みんな」に、まるで取り合われない。
そこで「馬鹿な戦争だった」「ファシズムだった」「軍部独裁だった」「言論の自由が無かった」と言われる。
そうだろうか?
私はそう思わない。
当時は「みんな」戦争に協力していたのだ。「みんな」は「一億火の玉だ」と叫んでいた。「ニッポン、チャチャチャ」だ。
そして、戦争で負けると「みんな、戦争はいやだった」と「みんな」は言い出した。その時に黙っていた人は、戦争中もやはり黙っていた人だった。
ただし、世間に相容れない考えであれば正しいと思っているわけではない。天邪鬼が間違っていて、世間が正しいことも多い。
しかし、正しいかどうかは、その時代に生きる人間にはわからない。
或る時点でのモノゴトの正しさや妥当性は、後から考えないとわからない。今のテレビドラマや映画などでは、大東亜戦争中に反戦的な発言をしたり生命尊重の考えを持ったりした人を正しいように描くが、それはあくまで今の時代の「時点」の見解に過ぎない。
私たちは今という時の「点」の中にいる。時間を線として眺める場所からでないと、点の中の考えの妥当性は検討できない。
しかも、文化や時代を離れて、それ自体が絶対に正しい考えが存在するだろうか?
絶対的な基準から見れば、世間が正しいわけでもないし、個人が正しいわけでもないということになってしまうのではないだろうか?
正しいかどうかは、「その時、その場で、何がコンビニ(都合がいい)か」ということに還元されるのではないだろうか?
しかし、そんなふうに考えず、例えば、平和と愛となると「人間が人間である限り、平和と愛は絶対に正しい」と言い張る人々がいる。そして、今はその考えに反対することはできない。反対することのできない考えに与するのもの、それが世間だ。
だから、世間にわるく思われると、個人としては終わりなのだ。末は博士か大臣かと言われる大臣も、世間の考えに反した考えを持っていることがバレれば詰め腹を切らされる。
「個人的な見解」であっても「戦争肯定」とか「体罰賛成」とか「性差別」とかいったものは今は許されない。それらは、大東亜戦争中の共産主義や個人主義と同じく、絶対に間違っているのだから、意見として口にすることすら許されないのだ。
そして、個人の見解や意見を許さない「世間」はいつの時代にも存在する。女性を「産む機械」と喩えた大臣がいたそうだ。憤った人々は自分が正しいことを全く疑わない人間だと思う。だから、彼らは世間なのだ。
そういう人々は、大東亜戦争の時代には「奉公」の正義を疑うことのなかった人々と同じ精神構造をしていると私は思う。
今、「愛と平和」に何の疑いも持たない人は、現代の世間だ。彼らは、明治や昭和の時代に「忠と孝」の大義を絶対視していた世間の、時間を越えた反照だ。
これは社会的動物である人間には避けようのない生き様なのだろう。ふだんはその生き様を意識することもない。しかし、犬の群れとか、犬のまわりに集まっている人間たちを見ると、犬としての人間の姿が見えてくるような気がする。その姿は、頭が自分の尻尾を飲み込んでいる奇妙な生き物をほうふつとさせる。
ウロボロス(自身の尾を呑みこむ蛇)と言えばなんだか格好がいいが、自分の尻尾を追いかけて目を回す犬と考えてもいい。ユングのありがたい解釈によるとウロボロスは「元型とその対立者との内的な親近関係」のイメージだそうだ。
ちょうど、世間は、またぞろ、大臣の「こころない放言」に心を痛めているようだから、こういう一文は私の「世間を狭く」してしまいそうだ。
しかし、私とて、「対立者との内的親近関係」を求めて自分の尻尾に噛み付こうとしている犬の一匹であることには変わりはないのだから、憐れみをもって読み流してほしい。
バランスをとるために現在の「世間」の良識を示す「まっとうな」見解を下に貼り付けておきます。
でも、下に貼り付けた記事↓によると、若い人の間で「世間」の分裂が起きているようにも思える。
もしかしたら、「世間」がまたもや戦前型にくるっと戻る可能性もあるのかも。まあ、あんまり「個人重視」の世の中が続きましたからね。
公的道徳が疎かにされると、結局個人がソンをする社会になる。
それで、また、国家重視の世の中が恋しくなる。
どっちにしても個人の利己主義から出てることで。
私は自分では右翼的な人間だと思ってはいるんですが、戦前型の「世間」もウットオシイな。個人と国家のバランスが理想だけど、そんなことは無理。
個人主義と国家主義の間を社会が行ったり来たりするのが歴史だ。
私個人としては、個人主義的左翼的な「世間」に反発して文句をつけている今が一番快適だ(笑)。
自分が「世間」の側に、つまり犬の一員になるのはイヤダ。世間が本格的に右傾したら(しかし、それは有り得ないと私は思っている、右傾のためには個を奉げて悔いのない全体を体現する天皇が必要。つまり原始神道の現人神としての天皇。そういう天皇はまともに見たら目がつぶれる存在。
背広着てニコニコ笑っている今の天皇のために誰が死ねますか?そういう意味では、戦後のアメリカ進駐軍は右傾の根源を断ったと言える。
三島由紀夫が最後に死守しようとしたのも、右傾の根源だった。
だから、人間宣言をした昭和天皇は三島由紀夫をことのほか嫌っていらっしゃったそうだ。自分に神になれって三島由紀夫は自分の首を差し出して強訴するんだから、無理ないね)、サヨク思想の勉強でも始めよう(笑)。
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民主党の山岡賢次・国対委員長は29日、TBSの「朝ズバッ!」内で以下のように発言した。
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(中山前国交相の辞任について20歳以上男女を対象にアンケートしたところ「辞めるべき」48%、「辞める必要はない」45%で意見が拮抗したことについて)
山岡賢次・国対委員長
「この数字は極めて重要なんです。これは歴史的傾向なんです。もし若い方たちが知らずに表明しているのかあるいは解りながら表明しているのか。解っているとしたら、歴史が回転してるんですね。
戦後60年ですね。ある意味では、心情的には、いつか来た道にだんだん戻って繰り返すと。
そうすると、中山先生も麻生総理も同じ発想ですけど、極めてそういうところに原点を持っているような感じがしてしょうがないんですね。
ですから、そういう人達が人気が出てくる、秋葉原で人気が出てくると、これはある意味では戦前のドイツ・日本の現象に回帰しており極めて危険で、そういうとこのリーダーは非常に大切なんですよね。
リーダーがそういうのを煽ってると、日本がいつか来た道に行く恐れがある。」
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