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人間は神の子だから神である、という人がいる。キリンの子がキリンであるように、神の子は神だというのである。
イマイチ納得できない。キリンの子はどう見てもキリンであるが、人間はどう見ても神ではない。あまりにちがいがあり過ぎる。
神の子とは、もとは神だったというべきである。もとは神であったが今は神ではない。それが「人間神の子」の意味なんだと、おいらはおもう。
太平洋の水をペットボトルに入れて家に持ち帰ったとする。ペットボトルのなかにあるのは「太平洋の水」であって太平洋ではない。
「太平洋の水」は、もとは太平洋であったが、今は太平洋ではない。質的にはおなじと考えて間違いではないが、機能的なちがいがあり過ぎる。
「太平洋の水」では魚は育たない。人もクジラも泳げない。船は航行できない。海流や潮の干満といったダイナミックな運動がない。
機能の面から見て、「太平洋の水」は、本物の太平洋とはあきらかなちがいがある。神の子と神との関係もこれとおなじだ。神の子と本物の神とでは、質的には同等であるとしても、機能的に大きな差があるはずなのである。
もちろんおいらは、実相についていっているのではない。実相のことなんてわからない。わからないことを語ってもしかたがない。わかっていそうなことしか語ることはできない。
今の段階で実相を語る必要はない。現象の人間だって神の子である。もとは神だった神の子である。質的には神とおなじ神の子である。神としての機能を持たない神の子である。
禅宗には「全機現」という言葉がある。この意味がおいらにはさっぱり理解できなかった。そこでおいらは、機能という観点からその意味について考えてみた。
「全機現」を「すべての機能があらわれること」と考えれば納得がいく。「すべての機能」とはもちろん神の全機能である。神の機能のすべてがあらわれることが「全機現」なのだと考えれば、何を目標にすればよいのかがはっきりと見えてくる。
「全機現」とは、人間と神とがコヒーレントな関係になるということである。神にできることは人間にもできる。そうなることが、神とのコヒーレントな関係をきずくということだ。なすべきこととは、コヒーレントな関係をきずくことによって、神の全機能をわが身において体現するということなのだ。
たとえ現象の人間であっても、気が遠くなるほどの長い年月をかけさえすれば神とおなじ機能を持つことはできる。それができて、はじめて神の子は神であるということがいえるのだ。
ペットボトルの水を太平洋にもどせば、その水は、太平洋の一部となることができる。人間も神のもとにもどれば神の一部となることはできる。しかしそれでは、人間は人間でいることができない。もはやそれは神そのものだ。
人間の実相が神だというのは、そういうことをいっているのだろう。しかしおいらは、神と同化して神となるのではなく、現象のままで神に近づかなくてはならないと考えている。それができなければ、神から離れて人間になった意味がない。
ペットボトルの水と人間とはちがう。ペットボトルの水は、機能的には太平洋とはまったくつながっていない。どんなにあがいたところで太平洋にはなれない。
人間は、機能的にも神とつながっている。神とのコヒーレントな関係になることができる。人間のままで神の機能を全開させることができるはずなのだ。「全機現」とはそういうことをいっているのだとおいらは理解した。
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