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おいらは、高校の三年間、まったく本を読まなかった。自慢げにかくことではないが、読んだのはたったの一冊である。それも読みたくて読んだのではなく、夏休みの世界史の宿題でしかたなく読んだのである。
当時、おいらは世界史クラブに入っていた。これも入りたくて入ったのではなく、友人の一人が入部したので、ほかの連中も、とくにこれといった理由もなく、つられるように入部したのであった。
その付和雷同した連中のひとりがおいらだったというわけである。そのクラブの顧問というのが、大学を出たばかりの青二才であったのだが、それだけにやる気は満々で、熱血教師のごとくおいらたちを指導した。
その青二才が世界史の授業の担任でもあった。夏休みの宿題は青二才が出したものであったので、おいらとしても無下にあつかうわけにもゆかず、ふつうであれば、どうせヤツは本の中身までは知るまいと、読んでもないのに読んだふりをして感想を書くとか、あるいは斜め読み、飛ばし読みで、適当にアウトラインをつかんでごまかすとかするわけなのだが、このときばかりは、日ごろの恩義にむくいるためにも誠意をもってのぞむよりほかはなかったといった次第なのである。
そんな次第で読みはじめたのが、ジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』であった。はじめはいやいやながらであったが、読み進んでいるうちに引き込まれてしまって、けっきょく最後まで読むことになった。ぞんがい面白かった。
内容はすっかりわすれてしまったが、シーザーの戦術家としてのたぐいまれな才能が随所にでていて、戦況を正確に分析して適材適所に部隊を配置するという天才的な戦略眼には驚嘆せざるを得なかった。
ガリアというのは、イタリア北部からフランス南部にかけてのかなり広い地域で、ここに居住していた人々はガリア人と呼ばれていた。ローマは、ガリア人を制圧するために、シーザーを将軍とする軍団を派遣して、その任務にあたらせたのである。
35万を数えるガリア軍にたいして、シーザーは5万の軍団を率いて戦いを挑み、制圧は成功した。『ガリア戦記』は、シーザーがローマ本国に送った戦況報告であった。
ローマにたいする服従をガリア人に誓わせたシーザーは、部隊をひきいて、ローマへの帰途についた。がしかし、ここで思わぬ事態が待ち受けていた。ガリア戦で大きな功績をあげたシーザーの影響力の拡大をおそれたローマの元老院が、ルビコン川をわたる前に軍備をほどいて軍隊を解散するようにとシーザーに命じたのである。
ルビコン川の北岸にしばらく足止めされたシーザーは、軍団を率いてルビコンをわたりローマへと凱旋する決意をした。当時、ローマの許可なく軍隊を率いてルビコン川をわたったものは、それが誰であってもローマの敵とみなされた。ルビコンをわたることは、シーザーにとってローマへの反逆を意味していた。
ルビコン川をわたる決意をしたシーザーは、将兵にむかって言った。「川をわたれば民の地獄、わたらざればわが身の地獄」。シーザーは、全軍にむかって、ルビコンをわたるのは自分のためだと宣言したのだ。
これは、自分さえよければ民はどうなってもかまわないと言ったも同然なのだ。自分がわたれば民が苦しむことになる。しかし、わたらなければ自分はおわりだ。だから一緒にわたってくれと全軍の将兵にたのみ込んだのである。
ふつうであれば、格好をつけて逆のことを言うはずだ。「わたればわが身の地獄、わたらざれば民の地獄」と。「わたるのは民のためであって自分のためではない。わたれば自分が地獄を味わうのだ」と自分を正当化するようなことを言うはずである。誰かがこんなことをテレビで言っていた。
シーザーはそれをしなかった。正直に自分の窮状を、全軍の兵にむかって訴えた。「人はどうなってもよい。これは自分のためなのだ」と訴えたのだ。全将兵は、シーザーの訴えに耳を貸し期待に応えた。シーザーとともにルビコンをわたることに同意したのである。
こうして「賽は投げられた」。シーザーは全軍をひきいてルビコンをわたった。「いくらなんでもわたるまい」と高をくくっていた元老院派は狼狽した。戦うこともなく全員がエジプトへと脱出した。そして、シーザーをおそれるエジプトの王にとらえられ、元老院派は処刑された。
シーザーがもしルビコンをわたるときに、「これは民のためであって自分のためではない」と言っていたら、全軍の士気は低下していたかもしれない。シーザーは、部下を信頼して自分のために戦ってほしいと訴えた。その真摯な言葉に全軍の兵士は奮い立ち、ローマと戦う決心をしたのだ。
もしもおいらが窮地におちいって誰かの協力を仰ぐ必要がでてきたときには、「おいらはいま困っている。力を貸してほしい」と正直にたのみ込むなんてことはできないだろう。かならず妙な理屈を持ち出して、あたかもそこに大義名分があるかのごとく言い募って、「いやなら協力してくれなくてもいいんだぜ」みたいなことになるだろう。
人に弱みを見せられない人間というのは、ほんとうはもっとも弱い人間なのかもしれない。自分に自信があれば、たとえ弱みを見せたとしても、そのことで相手からみくびられはしないかと恐れたりはしないはずだ。
おいらも匿名だと、知られると恥ずかしい弱みを見せることはできる。でも、実際の人間関係のなかではけっして見せることはない。見せるとしたら、それは自分にとってはどうでもいい弱みだ。ほんとうの弱みはぜったいに見られたくはない。自分がいちばん隠したい弱みを人にみせることができるようになったとき、おいらもルビコンをわたれるようになるだろう。
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