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世界の基本的な仕組みは、大雑把にいってふたつある。「重ね合わせ」と「非局在性」である。このふたつの仕組みがわかれば、世界とは何であるかのおおよその見当がつくことになる。
「重ね合わせ」は、文殊菩薩やシュレーディンガーの猫のように「来ているのに来ていない」や「生きているのに生きていない」といった相反する出来事が、ひとところで同時におきているという現象をさしている。
それが何であれ、世界は、あらゆるものごとが重ね合わさってできている。生長の家でよくいわれる「病気をしていながら病気をしていない」というのも重ね合わせの一例だ。この言葉の意味を、「現象の自分は病気をしていても実相の自分は病気をしていない」と説明することもあるが、「病気をしている現象の自分」と「病気をしていない現象の自分」とが重ね合わさったものだと考えることもできる。
おいらの人生も、いろいろなものが重ね合わさってできている。おいらは、ここにいながら、ここにはいない。生きていながら生きてはいない。子供でありながら青年であり、老人でもありながら、そのどれでもない。それがおいらの本来の姿である。
「非局在性」とは、「局在」しないということだ。目の前のイスを見て、それがイスのすべてであると考えるなら、その人は、イスが「局在」すると考えていることになる。「局在」とは、ここにだけあって、よそにはないということだ。たいていの人は、イスもテーブルも「局在」すると考えている。もちろん、自分自身についても「局在」すると考えている。「いま・ここ」にいる自分だけが自分のすべてだと信じている。
本当のイスはここにだけあるのではない。ここにだけあるように見えていても、イスは、宇宙全体にひろがっている。イスは宇宙のいたるところに存在する。時空を超えて、過去から未来のあらゆる時間に存在する。これがイスの「非局在性」である。
おいらもまた「非局在的」である。ここにいると同時にすべての空間と時間にいる。宇宙のあらゆる時と場所に存在している。それがおいらの「非局在性」である。
この世界のすべてのこととものは「非局在的」である。いかなる存在も、ここという場所に限定されてはいない。いまという時間にも限定されてはいない。時空を超えて、あらゆる時と場所に存在している。
ものごとを、宗教的に、あるいは哲学的に、そしてもちろん科学的に考えようとするなら、「重ね合わせ」と「非局在性」の視点をくわえる必要がある。おいらはそのように考えている。
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