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本居宣長に「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という片言があるということを小林秀雄が書いている。姿が似せがたいのは、言葉なのだという。言葉の姿は似せがたい。しかし意味は似せ易い。
「人間、神の子」は、もちろん言葉である。だから、その意は似せ易い。めいめいが、自分に気に入った意味で理解し解釈できる。きちんと解釈できて自分で納得できるのなら、それでかまわない。じっさいはそんなに簡単ではない。意は似せ易いのであるから、どんなふうにでも解釈できる。日替わりで「人間、神の子」の意味が変化する。ああでもないこうでもないと、迷い続けることになる。
「人間、神の子」の姿は似せがたい。解釈を拒絶して動じないもの、それが「人間、神の子」なのである。言葉にとって意味など、ほんとうはどうでもよいことなのだ。言葉には、最初から意味があるのではない。最初に意味があって、その意味にあわせて言葉が創られたというのは考えにくい。言葉はただ言葉として生まれた。意味はあとから勝手につけられたものだ。
今でもときおり、分け知り顔の才子たちが、「真理」という言葉の意味を定義せよといったりする。定義したければ、いくらでも勝手に定義すればよいだろう。意は似せ易いのだから、どのようにでも定義できる。だが、いくらそんなことを続けたところで、心が落ち着くことはないだろう。
おいらたちに必要なのは、言葉の姿に自分の心を似せようとすることだ。「人間、神の子」という言葉にあわせて自分の心を調律することなのだ。しかしそれは「姿ハ似セガタク」で簡単ではない。だから人は、似せ易い意味のほうに心を似せようとする。そして、ああでもないこうでもない、となるのである。
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