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人は誰でも、多かれ少なかれ、内的自己と外的自己の使い分けをやっている。かんたんにいえば、本音と建前を使い分けている。
ふつうの場合、本音と建前の使い分けが問題になることはない。本心では金が欲しいが、そとづらは「金はいらぬ」といったフリをしているとか、女子と付き合いたいが、誰一人としてよってくるものがいないので、「孤高のスピリチュアルマスターに女はいらぬ」といって不都合な真実を合理化するとか、そんな程度の使い分けであって、たとえそうした使い分けが困難な状況におちいったとしても、さっさと建前を捨てて本音をいってしまえば、それでコトがすむ。
内的世界と外的世界のギャップが大きくなりすぎると、コトはかんたんにはすまなくなる。「しあわせに満ちた内的世界」を体験していながら、「苦痛に満ちた外的世界」とかかわらねばならなくなったとき、人は、内的自己と外的自己の使い分けによって、直面する困難をのりきろうとする。
内的な自己は、ただひたすら「しあわせに満ちた内的世界」を楽しみ、「苦痛に満ちた外的世界」のやっかいごとは、すべて外的な自己に押しつけようとする。外的な自己は、あたえられた役割をいやいやながらもこなし続ける。外的自己だけが世俗化する。
やがて内的自己は、世俗化した外的自己をうとましくおもい軽蔑するようになる。内的自己にとって、外的自己こそが「苦痛のタネ」になる。内的自己は外的自己を、自分ではないものとして排除しようとする。自我は引き裂かれる。
「しあわせに満ちた内的世界」を味わいつくそうとして、内的自己と外的自己の使い分けをすれば、悲惨な未来が待ち受けることになる。内的自己と外的自己は、可能なかぎり一致していなくてはならないのだ。しかし、「しあわせに満ちた内的世界」を生きる内的自己が、「苦痛に満ちた外的世界」に適応できるはずもない。
叙情詩人のプラーテンがこんな詩をのこしている。
眼もて美を見たるものは
すでに死の手におちたるものなれば
もはやこの世のわざにはかなわざるべし
「美を見たる」内的自己は、「この世のわざ」をかなえるべき外的自己として生きることは、もはやできない。内的自己が生きられる場所は、外的世界のどこにもない。「美を見たる」内的自己は、すでに死の手におちているも同然なのだ。
いかにそれが美しくとも、人は、内的世界に耽溺してはならない。「苦痛に満ちた外的世界」の住人でい続けねばならない。真理に狩られてしまったおいらは、「しあわせに満ちた内的世界」にい続けようとした。どうやら、大事なところで判断をあやまってしまったようだ。
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