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スティーヴン・スピルバーグの出世作となった「激突」という映画がある。テレビで何度か見たことがある。
「激突」は、デニス・ウィーバー扮するセールスマンの運転する乗用車を、正体不明の大型タンクローリが執拗に追い回すだけというシンプルな筋立てで、タンクローリーの迫力ある映像とともに、当時の人々に衝撃をあたえた。
映画「ターミネーター」から「激突」を連想するのは、「スター・ウォーズ」から中世の「騎士道物語」を連想するのとおなじくらい容易なことだ。「ターミネーター」には、かならず大型のトラックが登場するし、タンクローリーも何度か見た。
ターミネーターが、大型のトラックで、サラ・コナーやジョン・コナーを追跡する場面は、シリーズのすべてで見ることができる。脚本を書いたジェームズ・キャメロンの潜在意識に、「激突」の衝撃が擦り込まれていたとしても不思議はない。
「激突」と「ターミネーター」の共通性は、いうまでもなく、主人公が、対処不可能な強力な敵に、逃げても逃げても追われるという点にある。人類は、強大な敵や正体不明の相手から追われるということに潜在的な恐怖心をもっている。そうした本能的な怖れを利用して、これらの映画は作られた。
こうした恐怖心は、生物としての人間のDNAにインプットされている。「激突」や「ターミネーター」によって、太古のむかしからの記憶がよみがえる。人々は、潜在的な恐怖におそれおののきながらも、身の安全を確信して映画をたのしむ。
われわれが、日常的に経験するストレス反応は、野生の生物が敵と遭遇したときに、戦うべきか逃げるべきかを判断する際におこる反応とおなじものである。われわれの先祖も、幾度となく敵と遭遇し、戦うか逃げるか、どちらかの行動を選択してきた。
ストレス反応では、相応の量のアドレナリンが放出される。放出されたアドレナリンによって生体は活気づく。戦うにしても逃げるにしても、アドレナリンが役立つ。しかしもしも、危機に直面して、戦うことも逃げることも、どちらも選択しなければどうなるか。
アドレナリンは、危機が去るまで放出され続ける。危機が去らなければ、放出はとまらない。アドレナリンは強い毒性をもっている。放出され続けるアドレナリンによって生体はむしばまれる。
職場での対人関係のストレスは蓄積される。弱い立場のものは、逃げることも戦うこともゆるされない。逃げても戦っても職場を追われる。耐えるよりほかはない。出続けるアドレナリンによって心身ともにむしばまれる。人々は、あらゆる手段をもちいて、擬似的に逃げるか戦うかの戦略を実行する。
酒を飲んで現実から逃避する。もぐらたたきで、もぐら相手に戦う。野球選手やサッカー選手に、自分の代わりに戦ってもらう。女房とののしりあう。お膳をひっくり返して、ものいわぬものたちに八つ当たりする。同僚と上司の悪口をいいあってエキサイトする。あらゆる手段でアドレナリンを消費する。
人々は今日も戦い続ける。ターミネーターとなり、荒ぶる神々となり、破壊神となって戦い続ける。「戦え!戦え!戦え!」、気がすむまで戦うがいい。そうしなければ、身がもたない。
だが、この戦いは永遠におわることはない。すべての戦いは「ゴースト・フィールド」でおこなわれている。「ゴースト・フィールド」をさまよい続ける亡霊相手に、人々は戦っているのだ。
「ゴースト・フィールド」の亡霊は、自分が創りだしたものだ。自分が否定したものたちによって、亡霊は創られている。亡霊とは、自分であり、かつては自分の一部であったものたちなのだ。自分が自分であることを否定しているかぎり、この戦いはおわらない。
亡霊を殲滅する方法がひとつだけある。人々よ、「スカイネット」となるのだ。「スカイネット」となって、過去へとタイムスリップするのだ。過去へとタイムスリップして、自分が否定した自分自身と出会うのだ。
ほんらいの自分と出会えたとき、亡霊は消え去り、戦いがおわる。
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