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丁稚さま

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2010年 1月29日(金)22時49分43秒
  合掌ありがとうございます。

丁稚さま、これまで当掲示板を賑やかに導いて下さりまして、ありがとうございます☆

さて、御要望のコメント削除の件、たしかに承りました。

そして、今後も、今まで以上に御愛顧のほど、ヨロシクお願いいたします♪♪

感謝拝☆
 

管理人様にお願い

 投稿者:丁稚  投稿日:2010年 1月19日(火)11時12分52秒
  掲示板管理人様。

丁稚です。お世話になっております。

これまでの書き込み記事、すべて削除したいのですが、「世間、或いは愛と平和について」の記事だけ、削除できません。お手数ですが、管理人様のほうで削除していただきたくお願いいたします。

今後は自分のブログに専念します。

みなさま、ありがとうございました。また縁があったらお会いしましょう。
 

郷人さま

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 9月 5日(土)01時40分20秒
  あっ…、ちょっと言葉足らずでしたね…。

『独身生活の方が気楽だ』というのは、結婚願望がなくなったわけではないよ。

僕は、ポジティブで前向きな姿勢を常に維持しているから、現状での独身生活の中にも最大限の楽しみを見出だして存分に楽しんでるだけだよ。

ただ、実際に結婚願望がいつ叶うかについては、神様に全託してるから、それがいつであろうとも今は今で満喫して、その目一杯の喜び生活の積み重ねの延長線上に、将来の更なる幸福を築こうという発想が、心中に同居しているのさ。

過去の如何なるモノに対しても、一切の悲観的な評価や否定的な事を楽観的なモノに置き換えて、全肯定の過去の延長線上に現在と将来の幸福を創造しようというだけだよん☆

感謝拝
 

世に棲む日々

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 9月 4日(金)13時00分19秒
   yutaちゃん、「独身の方が気楽だ」なんて、やけに消極的やね。なんかあったん?ボルテージ、完全にさがっとるやん。新天地でのストレス?部下の女子が反抗的?

 いつもポジティブシンキングのyutaちゃんらしくないよねぇ。「東京での一人暮らしの気楽さ」って、北海道では一人暮らしじゃなかったん?いや、べつに答えなくていいよ。

 おいら、これからしばらくは傷心の日々をおくります。じゃあ、またね。
 

えっ? 僕ですか?

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 9月 1日(火)23時25分50秒
  >>yutaちゃんはうまく行っていますか?

現在は、特定の恋をしてないよ☆
片想い的に、何人かの女性に目を付けてるけど、その中から一人に絞って交際を申し込むところまでは行ってません…。
っていうかぁ…、やっぱり結婚は面倒臭そうだなぁ…。とか、やっぱり独身の方が気楽だなぁ…。とか考えちゃってます。
東京での一人暮らしの気楽さに浸りきって、マイペースな日々を堪能いたしておりまするぅ。
 

yutaさま?

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 9月 1日(火)11時16分45秒
編集済
   これはこれは、どうもです。

 yutaさま?yutaさん、yuta君、うーん、どれもしっくりこないねぇ。むかし誰かが書いてたけど、おいらもyutaちゃんで行きましょうかね。

 恥ずかしながらこのようなことで、このようなことになってしまいました。わけがわからんことを書いてますが、なんとか煙に巻いてこの場をしのごうとしております。

 いつも気にかけてくれてありがとうね。おいらもなんか失恋しちゃったみたいで、がっくりきてるのよね。yutaちゃんはうまく行っていますか?

 ところで新しい人が投稿してくれてますね。素晴らしい内容ですね。でも、いちど投稿したものは、たぶんご自分で削除されてるみたいですね。どうしてなんでしょう。

 「手のひら療治」といえば、超能力を持つという整体師の治療をうけたことがある。軽くさわっているだけなのに、状態のよくない部分をさわられると激痛がはしる。おなじところを自分でどんなに強く圧迫してみても少しも痛みは感じない。たしかに何かあるようだね。

 治療の途中で、おいらはその力を試してみようとおもいたって、自分の手のひらから気を出してみた。するとその整体師はこともなげに「手から気が出てますね」といったんだよね。やっぱりなにがしかの特別な力は持っているような気がした。

 しかしおいらがおもうのは、世の中のすべての療法はプラシボー効果なのではないかということなんだな。ようするにすべてが暗示であって、効くとおもえばなんだって効くということだ。

近代医学の外科的治療でさえもプラシボーだという人もいる。大がりに手の込んだ療法をほどこせば患者はどうしたってその効果を信じてしまう。メリケン粉よりも、高名な医学博士にメスを入れてもらったほうが効くと考える人のほうがたぶん多いはずだからね。

プラシボーでもなんでも効けばいいわけなんだけど、その効果には、どうやら放射性同位元素の半減期のようなものがあって、次第に効き目がうすれていく。人の気持ちは移り気だということなんだろうね。「手のひら療治」も最初のころは効いていたんだろうとおもうけど、次第にその効果が半減していったんじゃないのかな。
 

郷人さま

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 8月29日(土)21時10分8秒
  おかえりなさいませ☆

出世魚ですか? いいですね。

これからが、あなたさまの『旬』となり、より脂が乗って美味しさを増すのですね☆
仮に元に戻っても、変化の過程でのハナシですから、それも生長していることに変わりはありません。
だから、あなた自身の想うがままになさりませ。

僕らは、皆、あなたのファンであり、常に味方ですよ☆

感謝拝
 

ライデンフロスト効果

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 8月27日(木)17時52分22秒
編集済
   熱したフライパンに水滴を落とせば蒸発する。フライパンの温度が高ければ高いほど、蒸発するまでの時間は短くなる。しかしある温度をこえると、逆に蒸発までの時間が長くなる。フライパンが高温になると、水滴はなぜか蒸発しにくくなる。

 その理由は、フライパンと水滴のあいだに水蒸気の膜ができるからだといわれている。フライパンの熱さが一定の温度をこえると、落とされた水滴がフライパンに接触するよりも一瞬早く両者のあいだに水蒸気の膜ができる。この膜が水滴を保護する。その結果、蒸発までの時間が長くなる。

 これはライデンフロスト効果と呼ばれる現象である。ライデンフロスト効果によれば、高温に熱してドロドロに溶けた鉛のなかに指を入れても、水蒸気の膜に保護されて、指はしばらくのあいだは守られるという。

 目の前にドロドロに溶けた鉛がある。この鉛のなかに指をつっこんでも、理論的には大丈夫である。さてあなたは、自分の指をこのなかに入れる勇気があるだろうか。

 「人間は神の子だから大丈夫だ」といわれても、やっぱり躊躇するときは躊躇する。いくら「大丈夫だ」といわれても心配だ。人生の大問題を前にして、神を信じて身を投げ出すなんてこと、いくら「大丈夫だ」といわれても、やっぱりできませんよね。
 

あゆみさんへ

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 8月25日(火)18時45分19秒
  衝撃の告白をしたあとなので、いつもとちょっとパターンを変えてみました。またすぐ元に戻るとおもいます。  

郷人さん

 投稿者:あゆみ  投稿日:2009年 8月25日(火)04時19分14秒
  出世魚のごとく、一回り大きくなって皆さんの前に再登場ですね。  

知りたくないの

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 8月24日(月)22時53分4秒
編集済
   菅原洋一の『知りたくないの』の原曲を調べようとおもってネットで検索した。原曲は『I really don’t want to know』という、どこかテネシーワルツに似たカントリーぽい曲だった。

検索にひっかかった『I really don’t want to know』をアン・マレーの歌声で聞くことができた。アン・マレーを聞くのはウン十年ぶりのような気がする。なつかしい。アン・マレーのデビュー曲であり大ヒット曲でもある『スノーバード』を毎日のように聞いていたのを思い出した。

当時は、ヘレン・レディーの『デルタドーン(デルタの夜明け)』やキャプテン&テニールの『愛あるかぎり』、リンジー・ディポールの『モンマルトル』など洋楽ばかりを聴いていた。『知りたくないの』を調べるつもりだったのに、なつかしい気分にひたる結果となってしまった。

『知りたくないの』がヒットしたころは、外国の曲を翻訳して、日本語でカバーするというのがはやっていたらしい。まだ駆け出しの作詞家だったなかにし礼が、『I really don’t want to know』を日本語の歌詞に訳すという大役をまかされた。そんな話をちょっと前にテレビでやっていた。

原曲の出だしは「How many arms have held you」。「何本の腕が君を抱いたのか」。このまま訳したのでは曲にならない。番組のなかで、なかにし礼は日本語の歌詞になおすときの決まり事について、つぎのように語っていた。

原曲の雰囲気をそこなわないこと。メロディーを変えないこと。歌いやすいこと。この三つをあげていた。そこでひらめいたのが「あなたの過去など知りたくないの」のおなじみのフレーズ。

 なかにし礼は「過去など」の部分が作詞のポイントだったという。「過去など」がひらめいたことによってヒット曲が生まれたのだと、なかにし礼は自信をもって言い切った。

 「過去など」の「など」のところで原曲は音階がさがっている。なかにし礼は、この部分はさがる必要はないという。仮に音程があがっていても曲になるという。それがなぜかさがっていた。

音階がさがっていたのが、なかにし礼にとっての最大の幸運だった。さがっていたことで「など」が入った。さがっていなければ入れることはできなかったのだ。「など」を入れることができた幸運が、『知りたくないの』の大ヒットにつながったのだと、なかにし礼はくり返し強調していた。

しかし問題はおきた。その当時、鳴かず飛ばずであった菅原洋一は、この曲に歌手生命をかけていた。これがダメなら歌手をやめなくならないとまで思いつめていた。そして「過去など」に難色を示した。

カ行の音がふたつ並ぶのは歌いにくい。ほかの歌詞に代えてくれるようにと菅原洋一は要求した。もちろん、ここがポイントであることを知るなかにし礼は、その申し出を拒否した。

「あんたプロの作詞家なんだから、なんとかできるだろう」という菅原洋一にたいして、「あんたもプロの歌手なんだから歌え」となかにし礼は応戦した。まわりにいたスタッフが「とにかく歌ってみよう」と割って入った。

歌ってみれば、誰が聞いても最高の出来だった。その場にいた誰もが絶賛した。「過去など」で行くことになった。菅原洋一が歌いはじめて2年後に大ヒットは生まれた。それは、なかにし礼が、作詞家としてはじめて経験した大ヒットの瞬間でもあった。

このときの思いを「あの感激はいちど味わうとわすれられない。デカルトもカントも味わったことのない感動だ」となかにし礼は述懐する。

「あなたの過去など知りたくないの」。どうですか、みなさん。おいらの過去なんて誰も知りたくはないですよね。
 

あれれ?

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 8月24日(月)07時06分23秒
  最近…、初心者さまの投稿がなくて淋しいのですが、どなたか知りませんか?

まだ、夏休み中なのかなぁ…。

感謝拝☆
 

あちゃー

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 8月14日(金)02時46分29秒
  僕の『お知らせ』を周知されるために、初心者さまはじめ、皆様の投稿がストップ状態のようですね?

申し訳ありません…。

昨日、新居でのネット回線の設置工事が完了したので、近日中にブログ『yutaka★hajime^^』が再開いたします。

初心者さま、ありがとう☆

感謝拝
 

お知らせ

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 8月 5日(水)06時48分3秒
  昨日、東京に引越して来ました…。

いままでは3LKに住んでましたが、こちらでは1Kです…。

荷物を目一杯に減らして来たのですが、部屋いっぱいに溢れてます…。(泣)

というわけで、ブログ『yutaka★hajime^^』の再開の目処が立たないので、どうぞご了承くださいませ。

感謝拝☆
 

アノミー −自由の代償−

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 8月 4日(火)10時44分31秒
   アノミーとは、近代において顕著となった、ある種の精神状況をあらわす言葉で、無規範と訳されることが多い。

 現代人は、外部に、自己を律するための規範を持たない。近代以前の社会では、ご先祖様やお天道様、武士道や古くからのしきたりや因習などといった、自己を律するための確固とした規範があった。

 むかしの人たちは、こうした外部の規範に照らし合わせることで、みずからの心持ちや行為の適否や正邪を判断することができたのである。

 近代になってから、「迷信や抑圧からの解放」をうたい文句に、そうした規範はつぎつぎと消滅させられていった。その結果、現代を生きる人々は、外部に、自己の行為の正邪を判断する基準を持つことができなくなってしまったのである。

 現代人においては、みずからの思念や行動の適否の判断は、自分自身の規範意識のみにゆだねられている。しかし、内部に規範を持つことができるのは、外部に参照可能な規範があればこそである。外部に規範がなければ、内部に規範をつくり出すことはできない。

 かくして現代人の欲望は、いっさいの規範がないままにあおられ続けることとなる。あおられることによって生じた欲望がまっとうなものであるのかどうか、それを判断する基準を現代人は持っていない。自分の欲望はすべて正当なものと誰もが思い込んでいる。

あおる方とて規範意識は有していない。規範を持たぬものたちが、規範を持たぬものたちをあおる。こうした構図が、現代において出来上がっているのである。これがアノミーである。

 野放図にあおられた欲望は、とどまるところを知らない。外部に欲望を制御するための規範を持たない現代人は、欲望のおもむくままに、自我意識をとめどもなく肥大化させる。

 現代人の自我とは、ブレーキをはずしてアクセルを踏み込んだまま走り続けるクルマにたとえられる。いちど走りはじめると、止まることはおろかスピードを落とすことさえできない。燃料がきれるまで、どこまでも走り続ける。暴走化し肥大化した自我が現代人を苦しめる。

 現代社会はアノミー社会である。治療のための処方箋はどこにもない。欲望を道連れに、ただいずこへとも知れず走り続けるのみである。規範意識を持たない自我は、最終的に他者との連帯感をなくし疎外感を味わわされることになる。無規範、無連帯、疎外感。これが現代社会をおおうアノミーである。
 

全機現

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 8月 2日(日)11時45分26秒
   人間は神の子だから神である、という人がいる。キリンの子がキリンであるように、神の子は神だというのである。

イマイチ納得できない。キリンの子はどう見てもキリンであるが、人間はどう見ても神ではない。あまりにちがいがあり過ぎる。

神の子とは、もとは神だったというべきである。もとは神であったが今は神ではない。それが「人間神の子」の意味なんだと、おいらはおもう。

太平洋の水をペットボトルに入れて家に持ち帰ったとする。ペットボトルのなかにあるのは「太平洋の水」であって太平洋ではない。

「太平洋の水」は、もとは太平洋であったが、今は太平洋ではない。質的にはおなじと考えて間違いではないが、機能的なちがいがあり過ぎる。

「太平洋の水」では魚は育たない。人もクジラも泳げない。船は航行できない。海流や潮の干満といったダイナミックな運動がない。

機能の面から見て、「太平洋の水」は、本物の太平洋とはあきらかなちがいがある。神の子と神との関係もこれとおなじだ。神の子と本物の神とでは、質的には同等であるとしても、機能的に大きな差があるはずなのである。

もちろんおいらは、実相についていっているのではない。実相のことなんてわからない。わからないことを語ってもしかたがない。わかっていそうなことしか語ることはできない。

今の段階で実相を語る必要はない。現象の人間だって神の子である。もとは神だった神の子である。質的には神とおなじ神の子である。神としての機能を持たない神の子である。

禅宗には「全機現」という言葉がある。この意味がおいらにはさっぱり理解できなかった。そこでおいらは、機能という観点からその意味について考えてみた。

「全機現」を「すべての機能があらわれること」と考えれば納得がいく。「すべての機能」とはもちろん神の全機能である。神の機能のすべてがあらわれることが「全機現」なのだと考えれば、何を目標にすればよいのかがはっきりと見えてくる。

「全機現」とは、人間と神とがコヒーレントな関係になるということである。神にできることは人間にもできる。そうなることが、神とのコヒーレントな関係をきずくということだ。なすべきこととは、コヒーレントな関係をきずくことによって、神の全機能をわが身において体現するということなのだ。

たとえ現象の人間であっても、気が遠くなるほどの長い年月をかけさえすれば神とおなじ機能を持つことはできる。それができて、はじめて神の子は神であるということがいえるのだ。

ペットボトルの水を太平洋にもどせば、その水は、太平洋の一部となることができる。人間も神のもとにもどれば神の一部となることはできる。しかしそれでは、人間は人間でいることができない。もはやそれは神そのものだ。

人間の実相が神だというのは、そういうことをいっているのだろう。しかしおいらは、神と同化して神となるのではなく、現象のままで神に近づかなくてはならないと考えている。それができなければ、神から離れて人間になった意味がない。

ペットボトルの水と人間とはちがう。ペットボトルの水は、機能的には太平洋とはまったくつながっていない。どんなにあがいたところで太平洋にはなれない。

人間は、機能的にも神とつながっている。神とのコヒーレントな関係になることができる。人間のままで神の機能を全開させることができるはずなのだ。「全機現」とはそういうことをいっているのだとおいらは理解した。
 

やまあらしジレンマ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 8月 1日(土)11時13分52秒
編集済
   そのときおいらは『女について』という文庫本を読んでいた。タイトルの文字を目ざとく見つけたヤツがいて、大声で「こいつ、『女について』という本を読みようるでー」といった。

 その場にいた数十人がおいらに注目した。離れたところに立っていたおばさんまでが、ニヤニヤしながらこっちを見ている。

 「何も知らぬヤツらめが」とおもったが、無視するわけにもいかず照れ笑いをつくってその場をしのいだ。

 『女について』は、何をかくそう、デカンショ節で知られるデカルト、カント、ショーペンハウエルの、あの大哲学者のショーペンハウエルの著作なのである。

 厭世思想家で知られるショーペンハウエルは、大の女嫌いでもあった。『女について』で、ショーペンハウエルは女子を徹底的にこきおろした。この本には、女子にたいする毒念がうずまいている。

そんな毒々しいまでの悪念がつまった本を、何でおいらが読んでいたのか。それは、女子にたいする腹いせだった。女子にぜんぜんモテないことに嫌気がさしたおいらは、その腹いせにショーペンハウエルを読んで、日ごろのウサをはらそうと目論んでいたのである。

その目論見はある程度は成功したにしても、それによって事態が好転するわけではなかった。その後も女子とは縁のない人生がつづくことになるのであるが、それはそれで悩みがなくてよい時代でもあったと、今となってはおもえるのである。

そのショーペンハウエルが「やまあらしジレンマ」ということをいっている。ある冬の寒い日、二匹のやまあらしが寒さに身を寄せ合った。二匹は近づきすぎて、それぞれのトゲで相手をキズつけた。二匹は離れた。離れすぎて寒さにたえきれなくなった。それでまた近づいて互いにキズつけあった。

やまあらしはジレンマにおちいった。試行錯誤のすえに適当な距離をとることをおぼえた。寒さをそこそこしのげて、しかもおたがいをキズつけあわずにすむ距離があることを知った。

二人の人間が近づけば、そこに関係性が生じる。その関係性によって、二人は互いをキズつけあうことがある。しかしそれは、「キズつけあう」というよりも「キズつきあう」といった方がよいのではないかとおいらはおもう。多くの場合、人は、自分で自分を勝手にキズつけているようにおもわれてならないからである。

実際ほとんどの人は、誰かをキズつけようなどとは、これっぽっちもおもっていないはずだ。むしろキズつけまいとして、トゲをかくす。トゲがないふりをして相手に近づこうとする。

そうしたからといってトゲが消えるわけではない。かくしたトゲは自分にささる。自分のトゲで自分をキズつける。

かくしたトゲは内向する。攻撃性をかくせば、自分で自分を攻撃するようになる。傲慢をかくせば、自分を卑下して卑屈になる。どうやらおいらは、人に近づく前から自分で自分をキズつけているようだ。

いっそのこと、自分のトゲで人をキズつけるようにした方が楽でいいのではないだろうか。でも、そんなことをしたら、次はきっとおいらの番だ。今度はおいらが、誰かのトゲでキズつけられることになる。やっぱりそれはいやだな。自分で自分をキズつけている方が、まだマシってもんだ。
 

エコロジーは世界を救えるか

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月31日(金)13時55分11秒
編集済
   キリスト教でいうロゴスとは、いうまでもなく聖母マリアの子供である。マリアは、霊的な存在でありながら、物質を産み出すことができた。マリアによって、物質は、霊から分離されて存在へと入ったのである。

 物質からは、またべつの物質が分離された。その結果、世界は、たがいがたがいを分離しようとする力によって満たされた。分離された物質どうしは、相互に反発しあうしかなかった。すべての物質は、孤立したエゴとなって自己の権利を主張しはじめた。

 物質どうしが集まって、孤立エゴ集団としての社会が形成された。社会のなかで物質は、自己のなわばりや所有するものを増やすことだけに専念した。こうして社会は混沌の場と化した。

 社会は秩序を欲した。物質がもっと賢くなれば社会に秩序がもたらされると物質は考えた。物質が賢くなるためにはロゴスが必要だった。物質はロゴスを求めた。マリアは、物質にロゴスをあたえた。

 こうして物質は、すこしだけ賢くなった。社会には最低限の秩序がもたらされた。孤立エゴ集団どうしは、ロゴスによって、分離を保ったまま、たがいの権利を認めあうことができるようになった。

 マリアには、ソフィアという姉がいた。ソフィアは無限の叡智であり、霊としてのみ存在していた。ソフィアは、物質によって東へと追放された。マリアだけがのこって、西の物質の後ろ盾となった。

 西の物質は、ロゴスをあがめたてまつった。やがて西の物質は、世界を支配するようになった。ソフィアは居場所をうしなった。西の物質は、世界全体が、孤立エゴ集団どうしが権利を主張しあう争いの場となるように画策した。

 ロゴスによって科学技術を発展させた西の物質は、東の物質や他の種類の物質を支配し略奪しその一部を絶滅させた。自然環境を徹底的に破壊して、みずからの存続があやうくなった。

 あわてた西の物質は、東の物質にも協力を求めて、エコロジーというロゴスによって環境の回復をめざすことになった。環境破壊の元凶となった思考の枠組みを崩すことなく維持して、おなじ思考によって、今度は復活させようという算段である。

 ロゴスとは、孤立エゴ集団を維持するための方便でもある。ロゴスによって環境を回復させるということは、孤立エゴ集団を存続させた上で、そのエゴの力で環境を変えていこうとする取り組みだ。

 この意味で、エコロジーとはエゴロジーである。環境にとって不都合なエゴだけをロジックによって押さえ込んだ上で、のこったエゴによって環境を回復させようという作戦だ。この作戦がはたしてうまくいくのか、その保証はない。

 今こそ世界は、ソフィアを思い出すべきである。ソフィアとは、分離ではなく統合である。孤立エゴ集団ではなく、調和した、世界の全体性を復活させるための叡智である。

エコロジーという言葉を使うかぎり、世界は何ひとつ変わらない。かつてこの世には、エコソフィアという言葉があった。それはエコ大和であってもエコブッダであってもかまわない。かつてこの世に存在した、世界に統合をもたらす叡智を回復させないかぎり環境破壊を止めることはできない。
 

ルビコン川

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月30日(木)21時04分41秒
   おいらは、高校の三年間、まったく本を読まなかった。自慢げにかくことではないが、読んだのはたったの一冊である。それも読みたくて読んだのではなく、夏休みの世界史の宿題でしかたなく読んだのである。

 当時、おいらは世界史クラブに入っていた。これも入りたくて入ったのではなく、友人の一人が入部したので、ほかの連中も、とくにこれといった理由もなく、つられるように入部したのであった。

 その付和雷同した連中のひとりがおいらだったというわけである。そのクラブの顧問というのが、大学を出たばかりの青二才であったのだが、それだけにやる気は満々で、熱血教師のごとくおいらたちを指導した。

 その青二才が世界史の授業の担任でもあった。夏休みの宿題は青二才が出したものであったので、おいらとしても無下にあつかうわけにもゆかず、ふつうであれば、どうせヤツは本の中身までは知るまいと、読んでもないのに読んだふりをして感想を書くとか、あるいは斜め読み、飛ばし読みで、適当にアウトラインをつかんでごまかすとかするわけなのだが、このときばかりは、日ごろの恩義にむくいるためにも誠意をもってのぞむよりほかはなかったといった次第なのである。

 そんな次第で読みはじめたのが、ジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』であった。はじめはいやいやながらであったが、読み進んでいるうちに引き込まれてしまって、けっきょく最後まで読むことになった。ぞんがい面白かった。

内容はすっかりわすれてしまったが、シーザーの戦術家としてのたぐいまれな才能が随所にでていて、戦況を正確に分析して適材適所に部隊を配置するという天才的な戦略眼には驚嘆せざるを得なかった。

 ガリアというのは、イタリア北部からフランス南部にかけてのかなり広い地域で、ここに居住していた人々はガリア人と呼ばれていた。ローマは、ガリア人を制圧するために、シーザーを将軍とする軍団を派遣して、その任務にあたらせたのである。

 35万を数えるガリア軍にたいして、シーザーは5万の軍団を率いて戦いを挑み、制圧は成功した。『ガリア戦記』は、シーザーがローマ本国に送った戦況報告であった。

 ローマにたいする服従をガリア人に誓わせたシーザーは、部隊をひきいて、ローマへの帰途についた。がしかし、ここで思わぬ事態が待ち受けていた。ガリア戦で大きな功績をあげたシーザーの影響力の拡大をおそれたローマの元老院が、ルビコン川をわたる前に軍備をほどいて軍隊を解散するようにとシーザーに命じたのである。

 ルビコン川の北岸にしばらく足止めされたシーザーは、軍団を率いてルビコンをわたりローマへと凱旋する決意をした。当時、ローマの許可なく軍隊を率いてルビコン川をわたったものは、それが誰であってもローマの敵とみなされた。ルビコンをわたることは、シーザーにとってローマへの反逆を意味していた。

 ルビコン川をわたる決意をしたシーザーは、将兵にむかって言った。「川をわたれば民の地獄、わたらざればわが身の地獄」。シーザーは、全軍にむかって、ルビコンをわたるのは自分のためだと宣言したのだ。

 これは、自分さえよければ民はどうなってもかまわないと言ったも同然なのだ。自分がわたれば民が苦しむことになる。しかし、わたらなければ自分はおわりだ。だから一緒にわたってくれと全軍の将兵にたのみ込んだのである。

 ふつうであれば、格好をつけて逆のことを言うはずだ。「わたればわが身の地獄、わたらざれば民の地獄」と。「わたるのは民のためであって自分のためではない。わたれば自分が地獄を味わうのだ」と自分を正当化するようなことを言うはずである。誰かがこんなことをテレビで言っていた。

 シーザーはそれをしなかった。正直に自分の窮状を、全軍の兵にむかって訴えた。「人はどうなってもよい。これは自分のためなのだ」と訴えたのだ。全将兵は、シーザーの訴えに耳を貸し期待に応えた。シーザーとともにルビコンをわたることに同意したのである。

 こうして「賽は投げられた」。シーザーは全軍をひきいてルビコンをわたった。「いくらなんでもわたるまい」と高をくくっていた元老院派は狼狽した。戦うこともなく全員がエジプトへと脱出した。そして、シーザーをおそれるエジプトの王にとらえられ、元老院派は処刑された。

 シーザーがもしルビコンをわたるときに、「これは民のためであって自分のためではない」と言っていたら、全軍の士気は低下していたかもしれない。シーザーは、部下を信頼して自分のために戦ってほしいと訴えた。その真摯な言葉に全軍の兵士は奮い立ち、ローマと戦う決心をしたのだ。

 もしもおいらが窮地におちいって誰かの協力を仰ぐ必要がでてきたときには、「おいらはいま困っている。力を貸してほしい」と正直にたのみ込むなんてことはできないだろう。かならず妙な理屈を持ち出して、あたかもそこに大義名分があるかのごとく言い募って、「いやなら協力してくれなくてもいいんだぜ」みたいなことになるだろう。

 人に弱みを見せられない人間というのは、ほんとうはもっとも弱い人間なのかもしれない。自分に自信があれば、たとえ弱みを見せたとしても、そのことで相手からみくびられはしないかと恐れたりはしないはずだ。

 おいらも匿名だと、知られると恥ずかしい弱みを見せることはできる。でも、実際の人間関係のなかではけっして見せることはない。見せるとしたら、それは自分にとってはどうでもいい弱みだ。ほんとうの弱みはぜったいに見られたくはない。自分がいちばん隠したい弱みを人にみせることができるようになったとき、おいらもルビコンをわたれるようになるだろう。
 

意志の力

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月30日(木)12時00分59秒
編集済
   これから意志について書こうとしているところである。意志の力といっても、不断の努力で何かを継続してやっていこうという、おいらがもっとも苦手とすることを書こうというのではない。霊的な観点からみたとき、意志とはどんな姿でもって立ちあらわれてくるのだろうか。こうしたことについて、これから書こうというのである。

 すでに何度か書いてきたように、意志は、意識のかなりくらい部分にかくれている。だから、普段の生活のなかで意志そのものを実感することもないし、その所在があきらかになることもない。

 それで、意志というものが何をしているのかということはあまり知られていないということになっているので、そのことについて「受け売り」を交えながら書いてみたいとおもうのである。

 意志の力のほとんどは肉体の機能を維持するためにつかわれている。心臓を動かしたり呼吸したり、食べたものを消化したりするのは、すべて意志の力がやっていることである。肝臓や腎臓の分解力や生成力、そして浄化の仕組みが維持されるのも、みんな意志が、日夜休むことなく全力でその役割を果たしているからこそなのである。

手足を動かすのも意志の力である。マラソンランナーが42.195キロを走り続けるのも意志の力であり、テニスプレーヤーがフルセットを闘いぬくことができるのも意志の力によるものである。人間が生きて、努力して、運動して、仕事を続けることができるのは、すべて意志の力があればこそである。

日々の暮らしのなかで、単調な作業をくり返すことができるのも、目標にむかってまい進できるのも、為すべきことを成し遂げられるのも、みんな意志の力がはたらいているからこそなのである。

意志は、そのもてる力のほとんどを肉体や生活の維持のためにつかわざるを得ないのだ。文句もいわずに身を削ってはたらき続ける。肉体の活動が活発であればあるほど身を削る。肉体の機能が衰えないかぎり、意志は、その霊的な姿をあらわすことができない仕組みになっているのである。

肉体の機能が衰えるころになって、意志はようやくそのほんらいの姿をあらわしはじめる。老化によって肉体の機能がおとろえたとき、意志は、霊的な輝きを強めはじめるのである。「こころある道」を生きてきた人には、そのことがわかるはずだ。

老化とは神秘である。魂が、ほんらいの姿へともどるためのプロセスである。老化に抵抗することに意味はない。死であってさえも、抵抗することに本質的な意味はない。

意志は、肉体の死によって、その勤めから解放される。意志はほんらいの自分に目覚める。意志とは、神の叡智が魂に刻印されたものだ。すべての人の意志は、肉体を捨て去ることによって、ふたたび神の叡智として輝きはじめることができるのだ。
 

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