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コミュニケーション

 投稿者:丁稚  投稿日:2009年10月 2日(金)09時41分16秒
編集済
  弁解がてらの解説を考える過程で、コミュニケーションということについても考えました。

結論から先に書くと、コミュニケーションにおいて、自分の意見を出したら、それを「批判」として受け取られても仕方ないし、実際、誰かにとっては批判である可能性は常にある。だから、波風を立てたくない時は、自分の考えはしまっておくのがオトナだと思いました。

オトナは、何か意見らしいことを言っても、その場の「総意」をうまく見抜いて、それを「自分の意見」にできる人。「ワタシの意見」というものに拘らない人だと思います。一種の無我ですにゃ。

これは日本人に限らない。例えば、欧米人が日本人から見たら無理やりにでも他人と対立するような意見を搾り出すのは、それが彼らの社会での「総意」であり、「ボクも同じです」と言ったら「みんな」から拒絶されるからである。

よく日本人は集団主義だとか「他人が自分をどう思うか気にしている」といまだに言っている人がいるけど、他人を気にする・他人の視線の中にしかアイデンティティーを確立できないのは群れで生きる猿や犬や人間の生物学的なサガであって、民族文化を越えている。文化的な違いは、同調行動を個人主義的な建て前に包んで打ち出すか、そのままもろに同調行動として打ち出す(これは近代人のプライドを傷つける)かの違いだと思います。

さて、コミュニケーション講座などで登場するのが、「Yes, and」の対応。

「ええ、でも、・・・」と否定しないで、とにかく、「はい、そうしましょう」とか答えてから、「そして、○○しましょう」と対応する。

対人関係のスキルとして、接客業のセミナーなどでは必ず登場するようです。

「相手を先ずは受け入れる」「相手の意見を尊重する」といったことが、今の世間では、重んじられる。

その流れの中で、「Yes, and」も、からめ手で相手を思い通りにするスキルとして流布している。

でも、このYes, andの真骨頂は、相手を否定しないことではない。Yesだけだと、要するに、ただのイエスマンです。

要(かなめ)は、and。

相手の考え、立場はそのまま受け入れつつ、自分の意見を述べる。

そこでは必ず、拒絶や誤解のリスクが伴う。

Yes, andの練習をセミナーなどで受けると、基本は「旅行に行きましょう」から始まることが多い。

「旅行に行きましょう」
「はい、旅行に行きましょう。海外に行きましょう」
「はい、海外に行きましょう。イギリスに行きましょう」
「はい、イギリスに行きましょう。それからフランスに行きましょう」

というような具合で進めてゆくのだと指導される。

しかし、本当は、旅行など行きたくない時に、このYes, andを使うべきなのだ。

「旅行に行きましょう」
「はい、旅行に行きましょう。旅行の前に、家でのんびり身体を休めましょう」

Yes, andのコミュニケーションが必要だということは、互いに利害の調整を行わなければならない問題があることを示している。Yes, andは、真正面からの衝突を避ける技法なのだ。

andから行う自分の主張は、ボクシングで言えば、相手の顔面めがけて打ち出すパンチである。それはブロックされるかもしれないし、カウンターを喰らうかもしれない。

その危険を冒したくないのなら、相手のパンチをただありがたく頂戴して降参するしかない。

そうはいかない場合もある。

そうしたくない時もある。

その時に、Yes, andを使うのだ。

ここまで考えて、ボクが思ったのは、コミュニケーションは自分の本当の気持ちを出そうとすると、どうしてもリスクを伴ってくるものだということでした。

そして、このリスクをあえて背負ってまでコミュニケーションしたいと思う相手は、単に知人というより友だちということになるのだろうと思いました。

その友だちがやはりリスクを背負ってコミュニケーションを試みてくれたら、お互いは「知己」となるのだろう。

そういう相手がいる人、そういう相手が多い人はシアワセ者ですね。
 

戦争と平和

 投稿者:丁稚  投稿日:2009年 9月25日(金)09時57分47秒
編集済
  長過ぎて何を言ってるのかわからないと思うので、解説(笑)。

以前、ボクは皮肉な口調で次のように書いたことがある。

「今、「愛と平和」に何の疑いも持たない人は、現代の世間だ。彼らは、明治や昭和の時代に「忠と孝」の大義を絶対視していた世間の、時間を越えた反照だ。」

ボクが愛と平和の合唱に素直に加われないのは、平和は「いざとなったら戦う」という気持ちがないと維持できないように思えるからだ。

しかし、「戦う気概を持ちつつ、ぎりぎりまで平和を求めよう」ということで解決するほど、問題は単純ではないようだ。

先ず、平和が維持されているのは軍備があるから、という現実がある。

ところが「平和のための軍備」は、核兵器が象徴しているように、紛争の道具をはるかに越えて、人類を何十回も滅ぼしてしまうのに十分なくらい発達してしまっている。

抑止力といった言い方、考え方が間違っているんじゃないかとボクは感じてしまう。

いっそ「戦争のための軍備」にしたほうが、漸進的な軍備縮小を行えるのでは?と思ったりする。

例えば、ミサイルを使う戦争より、兵士が「戦場の前線」で戦う戦争のほうがマシである。

戦争は「戦場」で勝敗が決り、もし敵の兵士達が「都市」に入って来るなら、その時はもう戦争は終わっていて、都市は占領されるだけだった。

もちろん、負けた側の都市が民間人もろとも滅ぼされることもあった。しかし、人類そのものが戦争で滅びるような戦争は、不可能だった。

ところが、科学技術のおかげで、「世界大戦」ができるようになった。飛行機が出来て、「戦場」以外の「都市」を攻撃できるようになってから、戦争は人類存亡にかかわるものとなった。

今は、ミサイル兵器の時代である。つまり、戦争は「都市攻撃」が主体となってしまっている。

たぶん、古代、弓という飛び道具が発明されて、戦争はずいぶんと「卑怯な戦い」になったはずだ。

離れた場所から自分だけは安全を保って相手を殺傷するという武器は、人間性を失わせるようだ。

ミサイル兵器は、卑劣の象徴ではないだろうか?

三島由紀夫が日本刀にこだわったのは、戦いにおいても人間であることを失わないことにこだわったからなのかもしれない。

・・・・・・やっぱり、長くなってしまいました(笑)。
 

世間、或いは愛と平和について

 投稿者:丁稚  投稿日:2009年 9月25日(金)08時51分5秒
  これも去年書いたもの

・・・・・・・

半七捕物帳を読んでいると「世間」という言葉がよく出てくる。

「かういふことは人騒がせで甚だよろしくない。第一に世間の手前もある。」(『歩兵の髪切り』より)

「世間」とは何だろうか?

世間様に申し訳が立たない。
世間を憚る。
世間に相手にされなくなる。
世間体がよくない。

私たちは個人として生きるにあたって世間を頼りにし、世間を懼れ、世間に受け入れられ、世間とうまくいくように常に心を配っているようだ。

半七捕物帳の世界では、大店も「世間の評判がわるくなると」たちまち傾いてしまう。権勢を揮う者も世間が反発するような言動はとれないわけだ。

してみると、大臣の失言などをとらえて騒いでいる人々は「世間」なのかもしれない。

ああいう人々の実態というのはよくわからないが、身近に新聞記事と同じようなことを言って憤っている声を聞くこともある。そういう人の怒りは断片化された発言に対する単純な感情的反応だと私には思える。どうして自分がそういう反応をするのかを考えることは絶対に無いし、まして切り取られた発言の全体がどういうもので、発言した大臣の意図や思想や世界観に思いを馳せるということはありえない。

その怒りは正義の怒りだ。言い変えると、怒るのが目的である怒りだ。だから、怒りを感じる理由は考えない。そういう怒りがあるところには、ある種のリンチの楽しみが潜んでいて、それが怒りの実体であると思う。

私たちは個人として世間を懼れつつ、無意識に世間の中に溶け込んで個人を規制したり、個人を攻撃したりする楽しみを味わっているようだ。

大東亜戦争の末期に「桜花」というロケット型の特攻機が開発された。ロケットの噴出時間は10秒足らずだったから、桜花は大型の戦闘機に吊るされて目標を発見した後に空中発進する。

この桜花を搭載して出撃する大型戦闘機として「一式陸上攻撃機」が選ばれた。桜花特攻のために改造された一式陸攻の部隊が編成された。しかし、部隊長に任命された野中五郎少佐は桜花を搭載して訓練を繰り返すごとに桜花特攻は無駄だという確信を持つようになったという。

「二トンもある桜花を吊るして飛べば、途中で敵の戦闘機に撃墜される。こんな無駄なことをするより、今までどおり一式陸攻だけを使って夜間雷撃を行なうほうが戦果ははるかに大きい」という意味のことを語っていたそうだ。

しかし、野中少佐は桜花特攻の「神雷部隊」指揮官として、昭和二十年三月二十一日、桜花を吊るした一式陸攻十八機を従えて出撃した。

桜花はアメリカ戦艦を攻撃目標にしたということで、戦後確認された戦果は一隻撃沈。そのほかに数隻にいくらかの損害を与えたようだ。しかし、それ以外に戦果は無い。

この戦果に払った犠牲は桜花のパイロット五十五名。

そして、桜花を搭載して出撃した一式陸攻の乗組員三百六十八名の命。

桜花の初出撃でも、野中少佐以下十八機が全滅。攻撃目標の戦艦まで、まだ九十キロもあるところで米軍戦闘機に桜花もろとも撃ち落された。

陸上攻撃機は、元々は、爆撃機並みの航続距離を持ちながら戦闘機よりも速く飛ぶという新兵器だった。重い人間爆弾を抱えたまま為す術も無く撃墜されるのは悔しかっただろうと思う。まして陸攻に吊るされたまま何もできない特攻隊員の思いたるや、・・・。

一式陸攻の桜花搭載だけでなく、特攻そのものに疑問を持っていた野中少佐は、戦死後二階級特進。大佐となった。

大東亜戦争にはこういうやりきれない思いをする話が数え切れないくらいある。

個人の意見や見解だというだけで、後から見れば「正しい」あるいは「妥当」だったものが、「みんな」に、まるで取り合われない。

そこで「馬鹿な戦争だった」「ファシズムだった」「軍部独裁だった」「言論の自由が無かった」と言われる。

そうだろうか?

私はそう思わない。

当時は「みんな」戦争に協力していたのだ。「みんな」は「一億火の玉だ」と叫んでいた。「ニッポン、チャチャチャ」だ。

そして、戦争で負けると「みんな、戦争はいやだった」と「みんな」は言い出した。その時に黙っていた人は、戦争中もやはり黙っていた人だった。

ただし、世間に相容れない考えであれば正しいと思っているわけではない。天邪鬼が間違っていて、世間が正しいことも多い。

しかし、正しいかどうかは、その時代に生きる人間にはわからない。

或る時点でのモノゴトの正しさや妥当性は、後から考えないとわからない。今のテレビドラマや映画などでは、大東亜戦争中に反戦的な発言をしたり生命尊重の考えを持ったりした人を正しいように描くが、それはあくまで今の時代の「時点」の見解に過ぎない。

私たちは今という時の「点」の中にいる。時間を線として眺める場所からでないと、点の中の考えの妥当性は検討できない。

しかも、文化や時代を離れて、それ自体が絶対に正しい考えが存在するだろうか?

絶対的な基準から見れば、世間が正しいわけでもないし、個人が正しいわけでもないということになってしまうのではないだろうか?

正しいかどうかは、「その時、その場で、何がコンビニ(都合がいい)か」ということに還元されるのではないだろうか?

しかし、そんなふうに考えず、例えば、平和と愛となると「人間が人間である限り、平和と愛は絶対に正しい」と言い張る人々がいる。そして、今はその考えに反対することはできない。反対することのできない考えに与するのもの、それが世間だ。

だから、世間にわるく思われると、個人としては終わりなのだ。末は博士か大臣かと言われる大臣も、世間の考えに反した考えを持っていることがバレれば詰め腹を切らされる。

「個人的な見解」であっても「戦争肯定」とか「体罰賛成」とか「性差別」とかいったものは今は許されない。それらは、大東亜戦争中の共産主義や個人主義と同じく、絶対に間違っているのだから、意見として口にすることすら許されないのだ。

そして、個人の見解や意見を許さない「世間」はいつの時代にも存在する。女性を「産む機械」と喩えた大臣がいたそうだ。憤った人々は自分が正しいことを全く疑わない人間だと思う。だから、彼らは世間なのだ。

そういう人々は、大東亜戦争の時代には「奉公」の正義を疑うことのなかった人々と同じ精神構造をしていると私は思う。

今、「愛と平和」に何の疑いも持たない人は、現代の世間だ。彼らは、明治や昭和の時代に「忠と孝」の大義を絶対視していた世間の、時間を越えた反照だ。

これは社会的動物である人間には避けようのない生き様なのだろう。ふだんはその生き様を意識することもない。しかし、犬の群れとか、犬のまわりに集まっている人間たちを見ると、犬としての人間の姿が見えてくるような気がする。その姿は、頭が自分の尻尾を飲み込んでいる奇妙な生き物をほうふつとさせる。

ウロボロス(自身の尾を呑みこむ蛇)と言えばなんだか格好がいいが、自分の尻尾を追いかけて目を回す犬と考えてもいい。ユングのありがたい解釈によるとウロボロスは「元型とその対立者との内的な親近関係」のイメージだそうだ。

ちょうど、世間は、またぞろ、大臣の「こころない放言」に心を痛めているようだから、こういう一文は私の「世間を狭く」してしまいそうだ。

しかし、私とて、「対立者との内的親近関係」を求めて自分の尻尾に噛み付こうとしている犬の一匹であることには変わりはないのだから、憐れみをもって読み流してほしい。

バランスをとるために現在の「世間」の良識を示す「まっとうな」見解を下に貼り付けておきます。

でも、下に貼り付けた記事↓によると、若い人の間で「世間」の分裂が起きているようにも思える。

もしかしたら、「世間」がまたもや戦前型にくるっと戻る可能性もあるのかも。まあ、あんまり「個人重視」の世の中が続きましたからね。

公的道徳が疎かにされると、結局個人がソンをする社会になる。

それで、また、国家重視の世の中が恋しくなる。

どっちにしても個人の利己主義から出てることで。

私は自分では右翼的な人間だと思ってはいるんですが、戦前型の「世間」もウットオシイな。個人と国家のバランスが理想だけど、そんなことは無理。

個人主義と国家主義の間を社会が行ったり来たりするのが歴史だ。

私個人としては、個人主義的左翼的な「世間」に反発して文句をつけている今が一番快適だ(笑)。

自分が「世間」の側に、つまり犬の一員になるのはイヤダ。世間が本格的に右傾したら(しかし、それは有り得ないと私は思っている、右傾のためには個を奉げて悔いのない全体を体現する天皇が必要。つまり原始神道の現人神としての天皇。そういう天皇はまともに見たら目がつぶれる存在。

背広着てニコニコ笑っている今の天皇のために誰が死ねますか?そういう意味では、戦後のアメリカ進駐軍は右傾の根源を断ったと言える。

三島由紀夫が最後に死守しようとしたのも、右傾の根源だった。

だから、人間宣言をした昭和天皇は三島由紀夫をことのほか嫌っていらっしゃったそうだ。自分に神になれって三島由紀夫は自分の首を差し出して強訴するんだから、無理ないね)、サヨク思想の勉強でも始めよう(笑)。

・・・・・・・・・・・
民主党の山岡賢次・国対委員長は29日、TBSの「朝ズバッ!」内で以下のように発言した。

−−−

(中山前国交相の辞任について20歳以上男女を対象にアンケートしたところ「辞めるべき」48%、「辞める必要はない」45%で意見が拮抗したことについて)

山岡賢次・国対委員長

「この数字は極めて重要なんです。これは歴史的傾向なんです。もし若い方たちが知らずに表明しているのかあるいは解りながら表明しているのか。解っているとしたら、歴史が回転してるんですね。

戦後60年ですね。ある意味では、心情的には、いつか来た道にだんだん戻って繰り返すと。

そうすると、中山先生も麻生総理も同じ発想ですけど、極めてそういうところに原点を持っているような感じがしてしょうがないんですね。

ですから、そういう人達が人気が出てくる、秋葉原で人気が出てくると、これはある意味では戦前のドイツ・日本の現象に回帰しており極めて危険で、そういうとこのリーダーは非常に大切なんですよね。

リーダーがそういうのを煽ってると、日本がいつか来た道に行く恐れがある。」
 

郷人さま

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 9月 5日(土)01時40分20秒
  あっ…、ちょっと言葉足らずでしたね…。

『独身生活の方が気楽だ』というのは、結婚願望がなくなったわけではないよ。

僕は、ポジティブで前向きな姿勢を常に維持しているから、現状での独身生活の中にも最大限の楽しみを見出だして存分に楽しんでるだけだよ。

ただ、実際に結婚願望がいつ叶うかについては、神様に全託してるから、それがいつであろうとも今は今で満喫して、その目一杯の喜び生活の積み重ねの延長線上に、将来の更なる幸福を築こうという発想が、心中に同居しているのさ。

過去の如何なるモノに対しても、一切の悲観的な評価や否定的な事を楽観的なモノに置き換えて、全肯定の過去の延長線上に現在と将来の幸福を創造しようというだけだよん☆

感謝拝
 

世に棲む日々

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 9月 4日(金)13時00分19秒
   yutaちゃん、「独身の方が気楽だ」なんて、やけに消極的やね。なんかあったん?ボルテージ、完全にさがっとるやん。新天地でのストレス?部下の女子が反抗的?

 いつもポジティブシンキングのyutaちゃんらしくないよねぇ。「東京での一人暮らしの気楽さ」って、北海道では一人暮らしじゃなかったん?いや、べつに答えなくていいよ。

 おいら、これからしばらくは傷心の日々をおくります。じゃあ、またね。
 

えっ? 僕ですか?

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 9月 1日(火)23時25分50秒
  >>yutaちゃんはうまく行っていますか?

現在は、特定の恋をしてないよ☆
片想い的に、何人かの女性に目を付けてるけど、その中から一人に絞って交際を申し込むところまでは行ってません…。
っていうかぁ…、やっぱり結婚は面倒臭そうだなぁ…。とか、やっぱり独身の方が気楽だなぁ…。とか考えちゃってます。
東京での一人暮らしの気楽さに浸りきって、マイペースな日々を堪能いたしておりまするぅ。
 

yutaさま?

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 9月 1日(火)11時16分45秒
編集済
   これはこれは、どうもです。

 yutaさま?yutaさん、yuta君、うーん、どれもしっくりこないねぇ。むかし誰かが書いてたけど、おいらもyutaちゃんで行きましょうかね。

 恥ずかしながらこのようなことで、このようなことになってしまいました。わけがわからんことを書いてますが、なんとか煙に巻いてこの場をしのごうとしております。

 いつも気にかけてくれてありがとうね。おいらもなんか失恋しちゃったみたいで、がっくりきてるのよね。yutaちゃんはうまく行っていますか?

 ところで新しい人が投稿してくれてますね。素晴らしい内容ですね。でも、いちど投稿したものは、たぶんご自分で削除されてるみたいですね。どうしてなんでしょう。

 「手のひら療治」といえば、超能力を持つという整体師の治療をうけたことがある。軽くさわっているだけなのに、状態のよくない部分をさわられると激痛がはしる。おなじところを自分でどんなに強く圧迫してみても少しも痛みは感じない。たしかに何かあるようだね。

 治療の途中で、おいらはその力を試してみようとおもいたって、自分の手のひらから気を出してみた。するとその整体師はこともなげに「手から気が出てますね」といったんだよね。やっぱりなにがしかの特別な力は持っているような気がした。

 しかしおいらがおもうのは、世の中のすべての療法はプラシボー効果なのではないかということなんだな。ようするにすべてが暗示であって、効くとおもえばなんだって効くということだ。

近代医学の外科的治療でさえもプラシボーだという人もいる。大がりに手の込んだ療法をほどこせば患者はどうしたってその効果を信じてしまう。メリケン粉よりも、高名な医学博士にメスを入れてもらったほうが効くと考える人のほうがたぶん多いはずだからね。

プラシボーでもなんでも効けばいいわけなんだけど、その効果には、どうやら放射性同位元素の半減期のようなものがあって、次第に効き目がうすれていく。人の気持ちは移り気だということなんだろうね。「手のひら療治」も最初のころは効いていたんだろうとおもうけど、次第にその効果が半減していったんじゃないのかな。
 

郷人さま

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 8月29日(土)21時10分8秒
  おかえりなさいませ☆

出世魚ですか? いいですね。

これからが、あなたさまの『旬』となり、より脂が乗って美味しさを増すのですね☆
仮に元に戻っても、変化の過程でのハナシですから、それも生長していることに変わりはありません。
だから、あなた自身の想うがままになさりませ。

僕らは、皆、あなたのファンであり、常に味方ですよ☆

感謝拝
 

ライデンフロスト効果

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 8月27日(木)17時52分22秒
編集済
   熱したフライパンに水滴を落とせば蒸発する。フライパンの温度が高ければ高いほど、蒸発するまでの時間は短くなる。しかしある温度をこえると、逆に蒸発までの時間が長くなる。フライパンが高温になると、水滴はなぜか蒸発しにくくなる。

 その理由は、フライパンと水滴のあいだに水蒸気の膜ができるからだといわれている。フライパンの熱さが一定の温度をこえると、落とされた水滴がフライパンに接触するよりも一瞬早く両者のあいだに水蒸気の膜ができる。この膜が水滴を保護する。その結果、蒸発までの時間が長くなる。

 これはライデンフロスト効果と呼ばれる現象である。ライデンフロスト効果によれば、高温に熱してドロドロに溶けた鉛のなかに指を入れても、水蒸気の膜に保護されて、指はしばらくのあいだは守られるという。

 目の前にドロドロに溶けた鉛がある。この鉛のなかに指をつっこんでも、理論的には大丈夫である。さてあなたは、自分の指をこのなかに入れる勇気があるだろうか。

 「人間は神の子だから大丈夫だ」といわれても、やっぱり躊躇するときは躊躇する。いくら「大丈夫だ」といわれても心配だ。人生の大問題を前にして、神を信じて身を投げ出すなんてこと、いくら「大丈夫だ」といわれても、やっぱりできませんよね。
 

あゆみさんへ

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 8月25日(火)18時45分19秒
  衝撃の告白をしたあとなので、いつもとちょっとパターンを変えてみました。またすぐ元に戻るとおもいます。  

郷人さん

 投稿者:あゆみ  投稿日:2009年 8月25日(火)04時19分14秒
  出世魚のごとく、一回り大きくなって皆さんの前に再登場ですね。  

知りたくないの

 投稿者:郷人  投稿日:2009年 8月24日(月)22時53分4秒
編集済
   菅原洋一の『知りたくないの』の原曲を調べようとおもってネットで検索した。原曲は『I really don’t want to know』という、どこかテネシーワルツに似たカントリーぽい曲だった。

検索にひっかかった『I really don’t want to know』をアン・マレーの歌声で聞くことができた。アン・マレーを聞くのはウン十年ぶりのような気がする。なつかしい。アン・マレーのデビュー曲であり大ヒット曲でもある『スノーバード』を毎日のように聞いていたのを思い出した。

当時は、ヘレン・レディーの『デルタドーン(デルタの夜明け)』やキャプテン&テニールの『愛あるかぎり』、リンジー・ディポールの『モンマルトル』など洋楽ばかりを聴いていた。『知りたくないの』を調べるつもりだったのに、なつかしい気分にひたる結果となってしまった。

『知りたくないの』がヒットしたころは、外国の曲を翻訳して、日本語でカバーするというのがはやっていたらしい。まだ駆け出しの作詞家だったなかにし礼が、『I really don’t want to know』を日本語の歌詞に訳すという大役をまかされた。そんな話をちょっと前にテレビでやっていた。

原曲の出だしは「How many arms have held you」。「何本の腕が君を抱いたのか」。このまま訳したのでは曲にならない。番組のなかで、なかにし礼は日本語の歌詞になおすときの決まり事について、つぎのように語っていた。

原曲の雰囲気をそこなわないこと。メロディーを変えないこと。歌いやすいこと。この三つをあげていた。そこでひらめいたのが「あなたの過去など知りたくないの」のおなじみのフレーズ。

 なかにし礼は「過去など」の部分が作詞のポイントだったという。「過去など」がひらめいたことによってヒット曲が生まれたのだと、なかにし礼は自信をもって言い切った。

 「過去など」の「など」のところで原曲は音階がさがっている。なかにし礼は、この部分はさがる必要はないという。仮に音程があがっていても曲になるという。それがなぜかさがっていた。

音階がさがっていたのが、なかにし礼にとっての最大の幸運だった。さがっていたことで「など」が入った。さがっていなければ入れることはできなかったのだ。「など」を入れることができた幸運が、『知りたくないの』の大ヒットにつながったのだと、なかにし礼はくり返し強調していた。

しかし問題はおきた。その当時、鳴かず飛ばずであった菅原洋一は、この曲に歌手生命をかけていた。これがダメなら歌手をやめなくならないとまで思いつめていた。そして「過去など」に難色を示した。

カ行の音がふたつ並ぶのは歌いにくい。ほかの歌詞に代えてくれるようにと菅原洋一は要求した。もちろん、ここがポイントであることを知るなかにし礼は、その申し出を拒否した。

「あんたプロの作詞家なんだから、なんとかできるだろう」という菅原洋一にたいして、「あんたもプロの歌手なんだから歌え」となかにし礼は応戦した。まわりにいたスタッフが「とにかく歌ってみよう」と割って入った。

歌ってみれば、誰が聞いても最高の出来だった。その場にいた誰もが絶賛した。「過去など」で行くことになった。菅原洋一が歌いはじめて2年後に大ヒットは生まれた。それは、なかにし礼が、作詞家としてはじめて経験した大ヒットの瞬間でもあった。

このときの思いを「あの感激はいちど味わうとわすれられない。デカルトもカントも味わったことのない感動だ」となかにし礼は述懐する。

「あなたの過去など知りたくないの」。どうですか、みなさん。おいらの過去なんて誰も知りたくはないですよね。
 

あれれ?

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 8月24日(月)07時06分23秒
  最近…、初心者さまの投稿がなくて淋しいのですが、どなたか知りませんか?

まだ、夏休み中なのかなぁ…。

感謝拝☆
 

あちゃー

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 8月14日(金)02時46分29秒
  僕の『お知らせ』を周知されるために、初心者さまはじめ、皆様の投稿がストップ状態のようですね?

申し訳ありません…。

昨日、新居でのネット回線の設置工事が完了したので、近日中にブログ『yutaka★hajime^^』が再開いたします。

初心者さま、ありがとう☆

感謝拝
 

お知らせ

 投稿者:yutaka★hajime^^  投稿日:2009年 8月 5日(水)06時48分3秒
  昨日、東京に引越して来ました…。

いままでは3LKに住んでましたが、こちらでは1Kです…。

荷物を目一杯に減らして来たのですが、部屋いっぱいに溢れてます…。(泣)

というわけで、ブログ『yutaka★hajime^^』の再開の目処が立たないので、どうぞご了承くださいませ。

感謝拝☆
 

アノミー −自由の代償−

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 8月 4日(火)10時44分31秒
   アノミーとは、近代において顕著となった、ある種の精神状況をあらわす言葉で、無規範と訳されることが多い。

 現代人は、外部に、自己を律するための規範を持たない。近代以前の社会では、ご先祖様やお天道様、武士道や古くからのしきたりや因習などといった、自己を律するための確固とした規範があった。

 むかしの人たちは、こうした外部の規範に照らし合わせることで、みずからの心持ちや行為の適否や正邪を判断することができたのである。

 近代になってから、「迷信や抑圧からの解放」をうたい文句に、そうした規範はつぎつぎと消滅させられていった。その結果、現代を生きる人々は、外部に、自己の行為の正邪を判断する基準を持つことができなくなってしまったのである。

 現代人においては、みずからの思念や行動の適否の判断は、自分自身の規範意識のみにゆだねられている。しかし、内部に規範を持つことができるのは、外部に参照可能な規範があればこそである。外部に規範がなければ、内部に規範をつくり出すことはできない。

 かくして現代人の欲望は、いっさいの規範がないままにあおられ続けることとなる。あおられることによって生じた欲望がまっとうなものであるのかどうか、それを判断する基準を現代人は持っていない。自分の欲望はすべて正当なものと誰もが思い込んでいる。

あおる方とて規範意識は有していない。規範を持たぬものたちが、規範を持たぬものたちをあおる。こうした構図が、現代において出来上がっているのである。これがアノミーである。

 野放図にあおられた欲望は、とどまるところを知らない。外部に欲望を制御するための規範を持たない現代人は、欲望のおもむくままに、自我意識をとめどもなく肥大化させる。

 現代人の自我とは、ブレーキをはずしてアクセルを踏み込んだまま走り続けるクルマにたとえられる。いちど走りはじめると、止まることはおろかスピードを落とすことさえできない。燃料がきれるまで、どこまでも走り続ける。暴走化し肥大化した自我が現代人を苦しめる。

 現代社会はアノミー社会である。治療のための処方箋はどこにもない。欲望を道連れに、ただいずこへとも知れず走り続けるのみである。規範意識を持たない自我は、最終的に他者との連帯感をなくし疎外感を味わわされることになる。無規範、無連帯、疎外感。これが現代社会をおおうアノミーである。
 

全機現

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 8月 2日(日)11時45分26秒
   人間は神の子だから神である、という人がいる。キリンの子がキリンであるように、神の子は神だというのである。

イマイチ納得できない。キリンの子はどう見てもキリンであるが、人間はどう見ても神ではない。あまりにちがいがあり過ぎる。

神の子とは、もとは神だったというべきである。もとは神であったが今は神ではない。それが「人間神の子」の意味なんだと、おいらはおもう。

太平洋の水をペットボトルに入れて家に持ち帰ったとする。ペットボトルのなかにあるのは「太平洋の水」であって太平洋ではない。

「太平洋の水」は、もとは太平洋であったが、今は太平洋ではない。質的にはおなじと考えて間違いではないが、機能的なちがいがあり過ぎる。

「太平洋の水」では魚は育たない。人もクジラも泳げない。船は航行できない。海流や潮の干満といったダイナミックな運動がない。

機能の面から見て、「太平洋の水」は、本物の太平洋とはあきらかなちがいがある。神の子と神との関係もこれとおなじだ。神の子と本物の神とでは、質的には同等であるとしても、機能的に大きな差があるはずなのである。

もちろんおいらは、実相についていっているのではない。実相のことなんてわからない。わからないことを語ってもしかたがない。わかっていそうなことしか語ることはできない。

今の段階で実相を語る必要はない。現象の人間だって神の子である。もとは神だった神の子である。質的には神とおなじ神の子である。神としての機能を持たない神の子である。

禅宗には「全機現」という言葉がある。この意味がおいらにはさっぱり理解できなかった。そこでおいらは、機能という観点からその意味について考えてみた。

「全機現」を「すべての機能があらわれること」と考えれば納得がいく。「すべての機能」とはもちろん神の全機能である。神の機能のすべてがあらわれることが「全機現」なのだと考えれば、何を目標にすればよいのかがはっきりと見えてくる。

「全機現」とは、人間と神とがコヒーレントな関係になるということである。神にできることは人間にもできる。そうなることが、神とのコヒーレントな関係をきずくということだ。なすべきこととは、コヒーレントな関係をきずくことによって、神の全機能をわが身において体現するということなのだ。

たとえ現象の人間であっても、気が遠くなるほどの長い年月をかけさえすれば神とおなじ機能を持つことはできる。それができて、はじめて神の子は神であるということがいえるのだ。

ペットボトルの水を太平洋にもどせば、その水は、太平洋の一部となることができる。人間も神のもとにもどれば神の一部となることはできる。しかしそれでは、人間は人間でいることができない。もはやそれは神そのものだ。

人間の実相が神だというのは、そういうことをいっているのだろう。しかしおいらは、神と同化して神となるのではなく、現象のままで神に近づかなくてはならないと考えている。それができなければ、神から離れて人間になった意味がない。

ペットボトルの水と人間とはちがう。ペットボトルの水は、機能的には太平洋とはまったくつながっていない。どんなにあがいたところで太平洋にはなれない。

人間は、機能的にも神とつながっている。神とのコヒーレントな関係になることができる。人間のままで神の機能を全開させることができるはずなのだ。「全機現」とはそういうことをいっているのだとおいらは理解した。
 

やまあらしジレンマ

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 8月 1日(土)11時13分52秒
編集済
   そのときおいらは『女について』という文庫本を読んでいた。タイトルの文字を目ざとく見つけたヤツがいて、大声で「こいつ、『女について』という本を読みようるでー」といった。

 その場にいた数十人がおいらに注目した。離れたところに立っていたおばさんまでが、ニヤニヤしながらこっちを見ている。

 「何も知らぬヤツらめが」とおもったが、無視するわけにもいかず照れ笑いをつくってその場をしのいだ。

 『女について』は、何をかくそう、デカンショ節で知られるデカルト、カント、ショーペンハウエルの、あの大哲学者のショーペンハウエルの著作なのである。

 厭世思想家で知られるショーペンハウエルは、大の女嫌いでもあった。『女について』で、ショーペンハウエルは女子を徹底的にこきおろした。この本には、女子にたいする毒念がうずまいている。

そんな毒々しいまでの悪念がつまった本を、何でおいらが読んでいたのか。それは、女子にたいする腹いせだった。女子にぜんぜんモテないことに嫌気がさしたおいらは、その腹いせにショーペンハウエルを読んで、日ごろのウサをはらそうと目論んでいたのである。

その目論見はある程度は成功したにしても、それによって事態が好転するわけではなかった。その後も女子とは縁のない人生がつづくことになるのであるが、それはそれで悩みがなくてよい時代でもあったと、今となってはおもえるのである。

そのショーペンハウエルが「やまあらしジレンマ」ということをいっている。ある冬の寒い日、二匹のやまあらしが寒さに身を寄せ合った。二匹は近づきすぎて、それぞれのトゲで相手をキズつけた。二匹は離れた。離れすぎて寒さにたえきれなくなった。それでまた近づいて互いにキズつけあった。

やまあらしはジレンマにおちいった。試行錯誤のすえに適当な距離をとることをおぼえた。寒さをそこそこしのげて、しかもおたがいをキズつけあわずにすむ距離があることを知った。

二人の人間が近づけば、そこに関係性が生じる。その関係性によって、二人は互いをキズつけあうことがある。しかしそれは、「キズつけあう」というよりも「キズつきあう」といった方がよいのではないかとおいらはおもう。多くの場合、人は、自分で自分を勝手にキズつけているようにおもわれてならないからである。

実際ほとんどの人は、誰かをキズつけようなどとは、これっぽっちもおもっていないはずだ。むしろキズつけまいとして、トゲをかくす。トゲがないふりをして相手に近づこうとする。

そうしたからといってトゲが消えるわけではない。かくしたトゲは自分にささる。自分のトゲで自分をキズつける。

かくしたトゲは内向する。攻撃性をかくせば、自分で自分を攻撃するようになる。傲慢をかくせば、自分を卑下して卑屈になる。どうやらおいらは、人に近づく前から自分で自分をキズつけているようだ。

いっそのこと、自分のトゲで人をキズつけるようにした方が楽でいいのではないだろうか。でも、そんなことをしたら、次はきっとおいらの番だ。今度はおいらが、誰かのトゲでキズつけられることになる。やっぱりそれはいやだな。自分で自分をキズつけている方が、まだマシってもんだ。
 

エコロジーは世界を救えるか

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月31日(金)13時55分11秒
編集済
   キリスト教でいうロゴスとは、いうまでもなく聖母マリアの子供である。マリアは、霊的な存在でありながら、物質を産み出すことができた。マリアによって、物質は、霊から分離されて存在へと入ったのである。

 物質からは、またべつの物質が分離された。その結果、世界は、たがいがたがいを分離しようとする力によって満たされた。分離された物質どうしは、相互に反発しあうしかなかった。すべての物質は、孤立したエゴとなって自己の権利を主張しはじめた。

 物質どうしが集まって、孤立エゴ集団としての社会が形成された。社会のなかで物質は、自己のなわばりや所有するものを増やすことだけに専念した。こうして社会は混沌の場と化した。

 社会は秩序を欲した。物質がもっと賢くなれば社会に秩序がもたらされると物質は考えた。物質が賢くなるためにはロゴスが必要だった。物質はロゴスを求めた。マリアは、物質にロゴスをあたえた。

 こうして物質は、すこしだけ賢くなった。社会には最低限の秩序がもたらされた。孤立エゴ集団どうしは、ロゴスによって、分離を保ったまま、たがいの権利を認めあうことができるようになった。

 マリアには、ソフィアという姉がいた。ソフィアは無限の叡智であり、霊としてのみ存在していた。ソフィアは、物質によって東へと追放された。マリアだけがのこって、西の物質の後ろ盾となった。

 西の物質は、ロゴスをあがめたてまつった。やがて西の物質は、世界を支配するようになった。ソフィアは居場所をうしなった。西の物質は、世界全体が、孤立エゴ集団どうしが権利を主張しあう争いの場となるように画策した。

 ロゴスによって科学技術を発展させた西の物質は、東の物質や他の種類の物質を支配し略奪しその一部を絶滅させた。自然環境を徹底的に破壊して、みずからの存続があやうくなった。

 あわてた西の物質は、東の物質にも協力を求めて、エコロジーというロゴスによって環境の回復をめざすことになった。環境破壊の元凶となった思考の枠組みを崩すことなく維持して、おなじ思考によって、今度は復活させようという算段である。

 ロゴスとは、孤立エゴ集団を維持するための方便でもある。ロゴスによって環境を回復させるということは、孤立エゴ集団を存続させた上で、そのエゴの力で環境を変えていこうとする取り組みだ。

 この意味で、エコロジーとはエゴロジーである。環境にとって不都合なエゴだけをロジックによって押さえ込んだ上で、のこったエゴによって環境を回復させようという作戦だ。この作戦がはたしてうまくいくのか、その保証はない。

 今こそ世界は、ソフィアを思い出すべきである。ソフィアとは、分離ではなく統合である。孤立エゴ集団ではなく、調和した、世界の全体性を復活させるための叡智である。

エコロジーという言葉を使うかぎり、世界は何ひとつ変わらない。かつてこの世には、エコソフィアという言葉があった。それはエコ大和であってもエコブッダであってもかまわない。かつてこの世に存在した、世界に統合をもたらす叡智を回復させないかぎり環境破壊を止めることはできない。
 

ルビコン川

 投稿者:初心者  投稿日:2009年 7月30日(木)21時04分41秒
   おいらは、高校の三年間、まったく本を読まなかった。自慢げにかくことではないが、読んだのはたったの一冊である。それも読みたくて読んだのではなく、夏休みの世界史の宿題でしかたなく読んだのである。

 当時、おいらは世界史クラブに入っていた。これも入りたくて入ったのではなく、友人の一人が入部したので、ほかの連中も、とくにこれといった理由もなく、つられるように入部したのであった。

 その付和雷同した連中のひとりがおいらだったというわけである。そのクラブの顧問というのが、大学を出たばかりの青二才であったのだが、それだけにやる気は満々で、熱血教師のごとくおいらたちを指導した。

 その青二才が世界史の授業の担任でもあった。夏休みの宿題は青二才が出したものであったので、おいらとしても無下にあつかうわけにもゆかず、ふつうであれば、どうせヤツは本の中身までは知るまいと、読んでもないのに読んだふりをして感想を書くとか、あるいは斜め読み、飛ばし読みで、適当にアウトラインをつかんでごまかすとかするわけなのだが、このときばかりは、日ごろの恩義にむくいるためにも誠意をもってのぞむよりほかはなかったといった次第なのである。

 そんな次第で読みはじめたのが、ジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』であった。はじめはいやいやながらであったが、読み進んでいるうちに引き込まれてしまって、けっきょく最後まで読むことになった。ぞんがい面白かった。

内容はすっかりわすれてしまったが、シーザーの戦術家としてのたぐいまれな才能が随所にでていて、戦況を正確に分析して適材適所に部隊を配置するという天才的な戦略眼には驚嘆せざるを得なかった。

 ガリアというのは、イタリア北部からフランス南部にかけてのかなり広い地域で、ここに居住していた人々はガリア人と呼ばれていた。ローマは、ガリア人を制圧するために、シーザーを将軍とする軍団を派遣して、その任務にあたらせたのである。

 35万を数えるガリア軍にたいして、シーザーは5万の軍団を率いて戦いを挑み、制圧は成功した。『ガリア戦記』は、シーザーがローマ本国に送った戦況報告であった。

 ローマにたいする服従をガリア人に誓わせたシーザーは、部隊をひきいて、ローマへの帰途についた。がしかし、ここで思わぬ事態が待ち受けていた。ガリア戦で大きな功績をあげたシーザーの影響力の拡大をおそれたローマの元老院が、ルビコン川をわたる前に軍備をほどいて軍隊を解散するようにとシーザーに命じたのである。

 ルビコン川の北岸にしばらく足止めされたシーザーは、軍団を率いてルビコンをわたりローマへと凱旋する決意をした。当時、ローマの許可なく軍隊を率いてルビコン川をわたったものは、それが誰であってもローマの敵とみなされた。ルビコンをわたることは、シーザーにとってローマへの反逆を意味していた。

 ルビコン川をわたる決意をしたシーザーは、将兵にむかって言った。「川をわたれば民の地獄、わたらざればわが身の地獄」。シーザーは、全軍にむかって、ルビコンをわたるのは自分のためだと宣言したのだ。

 これは、自分さえよければ民はどうなってもかまわないと言ったも同然なのだ。自分がわたれば民が苦しむことになる。しかし、わたらなければ自分はおわりだ。だから一緒にわたってくれと全軍の将兵にたのみ込んだのである。

 ふつうであれば、格好をつけて逆のことを言うはずだ。「わたればわが身の地獄、わたらざれば民の地獄」と。「わたるのは民のためであって自分のためではない。わたれば自分が地獄を味わうのだ」と自分を正当化するようなことを言うはずである。誰かがこんなことをテレビで言っていた。

 シーザーはそれをしなかった。正直に自分の窮状を、全軍の兵にむかって訴えた。「人はどうなってもよい。これは自分のためなのだ」と訴えたのだ。全将兵は、シーザーの訴えに耳を貸し期待に応えた。シーザーとともにルビコンをわたることに同意したのである。

 こうして「賽は投げられた」。シーザーは全軍をひきいてルビコンをわたった。「いくらなんでもわたるまい」と高をくくっていた元老院派は狼狽した。戦うこともなく全員がエジプトへと脱出した。そして、シーザーをおそれるエジプトの王にとらえられ、元老院派は処刑された。

 シーザーがもしルビコンをわたるときに、「これは民のためであって自分のためではない」と言っていたら、全軍の士気は低下していたかもしれない。シーザーは、部下を信頼して自分のために戦ってほしいと訴えた。その真摯な言葉に全軍の兵士は奮い立ち、ローマと戦う決心をしたのだ。

 もしもおいらが窮地におちいって誰かの協力を仰ぐ必要がでてきたときには、「おいらはいま困っている。力を貸してほしい」と正直にたのみ込むなんてことはできないだろう。かならず妙な理屈を持ち出して、あたかもそこに大義名分があるかのごとく言い募って、「いやなら協力してくれなくてもいいんだぜ」みたいなことになるだろう。

 人に弱みを見せられない人間というのは、ほんとうはもっとも弱い人間なのかもしれない。自分に自信があれば、たとえ弱みを見せたとしても、そのことで相手からみくびられはしないかと恐れたりはしないはずだ。

 おいらも匿名だと、知られると恥ずかしい弱みを見せることはできる。でも、実際の人間関係のなかではけっして見せることはない。見せるとしたら、それは自分にとってはどうでもいい弱みだ。ほんとうの弱みはぜったいに見られたくはない。自分がいちばん隠したい弱みを人にみせることができるようになったとき、おいらもルビコンをわたれるようになるだろう。
 

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